ギブとシェアは何が違うのか。共有はニューパワーの共産主義の表現。無償の愛や、無償で与えると言うのは、オールドパワーの資本主義の、重力に引きずられた言葉。限界がある。僕らが普通にシェアと言う言葉を使うのはニューパワーの世界に属していると言う証拠かもしれない。

ギブとシェアは何が違うのか。共有はニューパワーの共産主義の表現。無償の愛や、無償で与えると言うのは、オールドパワーの資本主義の、重力に引きずられた言葉。限界がある。僕らが普通にシェアと言う言葉を使うのはニューパワーの世界に属していると言う証拠かもしれない。

与えると言う声がとても微妙さがある。無償で与えなさいと言う教えもある。だけど例えば、無償で与えたとしても、相手がそれを無償だとは受け取らない。何らかのお返しが必要だと思う。

相手から見て、仮に無償の与えるであったとしても、人間の今までの歴史的に見て、無償の与える行為があった例はまずない。だから、無償で与えると言う行為は、人間社会的に、無償であることが全く保証されていない。ここで人間のおびえがある。ただより高いものはない。

だから新しい言葉が必要になった。シェア、共有と言う概念だ。これは人間が古くから使ってきた与える、お返しをすると言う、ギブアンドテイク、ギブアンドリターンの概念がない。まだまだ新しい言葉だと思う。

だから次は共産主義で、ギブアンドテイクは、資本主義の言葉だと思う。言葉の生きている世界が全く違うんじゃないだろうか。フリーミアム的な世界では、共産主義的な思想がベースにあるから、共産主義の言葉として、共有、シェアと言う言葉で表現する。

これが古いオールドパワーの世界だと、無償で与えると言う表現になるのだけれど、それはオールドパワーの世界の限界を示すことでもある。オールドタワーの重力に引きずられながら、ニューパワーの世界に立つことができないのかもしれない。

僕はこのシェアと言う表現にとても、不思議を感じていた時期はある。ただ人に教えることを、なんでかっこつけてシェアと読んだりするのか。なんとなくこの言葉の奥底に隠された思想のようなものが、見え隠れしていたのは感じていた。

だけどわかった。ギブは古い世界、資本主義の世界、オールドパワーの世界の事まで、シェアはニューパワーの世界、新しい世界、デジタルの共産主義の世界の言葉なのだろう。そういう解釈に落ち着く。

こういう意味で言うと、取り立ててあなたに与えますよなんて言わなくても、ギブアンドテークと言う言葉を使わなくても、僕らは普通にシェアと言う一般表現を使っているのだから、ニューワールドではそれが全く自然な、当たり前の行為なのだ。素晴らしい世界じゃないか。

ギブとシェアは何が違うのか。共有はニューパワーの共産主義の表現。無償の愛や、無償で与えると言うのは、オールドパワーの資本主義の、重力に引きずられた言葉。限界がある。僕らが普通にシェアと言う言葉を使うのはニューパワーの世界に属していると言う証拠かもしれない。 https://t.co/zMimzBZ30l

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