いなうらゆうまはここにいた 2019-03-09
バナナなコミュニケーション術〜ですとですねの微妙な違い〜。
たとえばTwitterのリプライで話しかけるとき。美味しいそうなバナナですねと言うのと、美味しそうなバナナですと言い切るのではかなり違う。前者は返信の義務が高い。後者は返信の義務が低い。美味しそうなバナナですと言われたらそうですねと返したくなる。そうですね美味しそうなバナナですね僕もそう思いますと。そうすると美味しそうなバナナですねと問いかけた方も本当ですねと返さなければいけない気がしてくる。そうですね本当に美味しそうなバナナですね見かけたときから気になっていたんです本当ですねと。だけど後者のように美味しそうなバナナですとひとりごとのようにつぶやけばリアクションをする必要がない。ああこの人は本当に美味しそうなバナナが好きな人なんだなとしみじみと思いつつTwitterのいいねを一回つけるだけで事足りる。そうすると美味しそうなバナナですとリプライでつぶやいた側もそれ以上の返信の義務が生じず空いた時間でコンビニに本当に美味しそうなバナナを買いに行ってこのバナナは本当に美味しそうだとひとりごちることもできるのだ。このように文字ひとつでもバナナの美味しさや返信の義務感がずいぶんと変わってくる。この義務感を微妙に調整しつつ過大なコストを起こさないようにするのがコミュニケーションの技である。ばなな。なな。な。
人生に意味はないと、心の底から理解しておきたい。
僕の人生は、人生に意味があると考えることの無意識の、ただただひたすらなる連続であった。今でも考えないうちに考えている。人生には意味があるという肌感覚が染み付いてしまっている。だけど意味はない。そう考える方が良い。なぜか。安らぎを感じるからだ。人生に意味がないということを人はなかなか受け入れられない。ただの偶然で生まれてきたということを受け入れられない。そもそもこんな哲学的問答をするタイプの人間自体が少ない。アンケートを取ったわけではないけれど。しかし幸か不幸か人生問題に突き当たってしまった人間は、まるでソーシャルゲームにはまりこむみたいに、人生問題に深々とはまり込んでいくのが分かるだろう。人生とはなのか。なんのために存在するのか。人はなぜ生まれてきたのかという命題を考え続ける。まるで考えることがいつか答えを生み出すかのように。錯覚だ。考えても分からないことはジンセイにはたくさんある。そもそも答えが存在しない場合だ。答えがないのならばいくら考えても分かるはずがない。何度問いかけても答えが見いだせないのはそういうことだ。人類の歴史より何千万人の人間が考えてきたことだろう。生きることの意味というものについて。言葉という脆弱なシステムで。偉大な哲学者もいただろう。きっとその中には。だが言葉による解決は見いだせていない。それもそのはずだ。だってただのインクの染みなのだから。実感として回答に行き着いた人間はいるかもしれない。僥倖だ。生まれてきた良かっだ。だけど答えにたどり着いた人間も死んだ。今は生きていても100年以内には死ぬだろう。イエス・キリストも死んだ。ブッダも死んだ。樹木は人間よりも寿命が長い。人間の寿命は脆弱すぎる。ブルース・スプリングスティーンも死ぬだろう。ミック・ジャガーもキース・リチャーズも近いうちに死ぬだろう。いなうらゆうまも死ぬだろう。今日とも明日ともしれないけれど。ビートルズの生き残りはあと何人だっけ。ジャニス・ジョプリンはまだ生き残っていたかな。オノヨーコおばあちゃんなら何らかの答えを得ているかもしれない。だけど音楽にしたところで言葉にしたところでYoutube動画にしたところで同じだ。実感は決して記録には出来ない。Youtube動画だって繊細によく動くドットの染みに過ぎない。それを体験として立体化するのは僕らの脳だ。そしてなぜ人生に意味はないか。これを説き正すことも難しい。人生に意味がないということもロジックではなく実感である。そして僕にはこちらの方がはるかに落ち着き。居心地が良い。意図的な虚無の中にいることで永遠の安らぎを得られそうだ。もう無意識に生きる意味駆動のタービンが回り、延々と振り回されるのはたくさんだ。まったくの地獄でしかない。人生に意味はないという安らぎの感覚を、大阪梅田茶屋町のマクドナルドで久々に思い出した。もうすっかり忘れていた。自動駆動のタービンが回り続けていたからだ。この感覚を生涯大事にしていたい。人生に意味はない。
人生の99%は自分のために生きている。
残りの1%ぐらいはたぶん、人のために生きているかもしれない。僕はとにかく自分の時間を大事にする。今までのジンセイでしみじみと分かっている。どうやら、そういう性格みたいだ。孤独を愛するのはたぶん自分が大好きだからだろう。マインドフルネスのトレーニングにより、アンデンティティ問題から、ある程度自由になったとはいえ、Twitterで真っ先に見るのは自分への通知欄だ。人生に意味はないと唱えながら、文章を書き綴って、それを世の中に伝えようとしている。もし本当にそう思うなら、ただひとりで孤独に喋っていればよいのに。なんとも中途半端なやつだ。だけど人間はそういうものだ。社会性の中でしか決して生きることができない。とても弱い生き物だ。マインドフルネスなど関係ない。瞑想家であろうと関係ない。人とのつながりが大事というのは絵空事ではない。社会性が断絶すれば著しく幸福度が下がる。個人的なViewで言えば人生に絶望が滲み出す。どうにも世界へのアクセスが閉ざされる感覚がする。たとえ人生が幻想だとしてもそんなジンセイはいやだとこの生き物は思っている。自分自身に最もの興味がある生き物。生き物、生き物、生き物と唱えている奇妙な生き物。哲学者のように語ることを趣味とする大阪茶屋町エリアが好きな35歳のエンジニア。おそらく99%の確率で寿命がきてやがて死ぬことだろう。ところで99%は自分のために生きると書いた。自分で言うのもなんだけれど僕は人にはそこそこ優しいタイプだと思う。誕生日プレゼントは愛情をこめて贈る。30万円ほどの最新式のマッサージチェアを、気前よく家族にあげたこともある。人には無条件で優しくしたいと思う。道端にゴミが落ちていればイラッとして拾うことだってある。1ヶ月に1度ぐらいはね。だけどそういう問題ではない。その全てをかき集めてもなお1%には足りない。ひたすらに思考の保護シールドは自分の生存を守るために働き続けている。僕にはそのことがよく分かる。博愛精神など夢のまた夢だ。とてもマザーテレサにはなれそうもない。人の幸福のために生きる人生には到底、あと35年かけても到達できそうにない。99%の延々と続く自分のための思考と、たまたま1%だけ噴射する人に対する慈愛があるだけだ。もしかしたら慈悲の瞑想など、具体的な心理トレーニングを続ければ、もっと人にやさしくなれるのかもしれない。人の幸福のために生きられるのかもしれない。だけどこの慈悲のトレーニングというものがものすごく辛い。毎回心に大きめの反発が起こるので途中でやめてしまった。この事実から考えるにも僕は特に自分のことを考えやすいタイプの個体みたいだ。この1%がきっと人生が終わる頃に、2%程度にはなっていたら良いなと思う。もしかしたら二倍の飛躍は無理で、1.00%が1.05%になる程度かもしれない。だけど進歩であることに変わりはない。それだけ人の幸福を願うということは、僕には難しいスキルであるように思われる。今日から人の幸福のために生きる。100%そうする。そう心に決めていきなり出来るものではない。なにか仏教の世界の逸話にあるように、数億年、数十兆年の時間がかかることなのかもしれない。宗教的にあるいは無宗教的にでも輪廻転生を信じるのならば問題ない。永遠の時間のなかで少しずつ自我から解き放たれれば良い。だがこの人生というものは一回きりだとルールが決まっているらしい。誰が決めたルールかも知らないし、証拠も怪しいところなのだけれど。ということで99%自分のことを考え続ける僕が、あと0.01%ぐらいは人の幸福も考えられるように、大阪茶屋町エリア二階のマクドナルドで、ひたすらにMacBookのキーボードを叩いている、2019年、3月の、とある土曜日の‥。
エネルギーの足りない君は禅師になれる。
僕は非常に低エネルギーな動物だ。だけど僕は今の低エネルギー状態を愛しているとさえ思える。大阪茶屋町のマクドナルドは夜を向かそうだ。マクドナルドが夜を迎えそうだということは、大阪全体が夜を迎えそうだということであり、それはつまり日本が夜を迎えそうだということのはず。それがどうした。つまらないな。低エネルギーだと気の利いたことはあまり言えない。だけど気が利いているか否かには敏感になるような気がする。自分の生命エネルギーに対して敏感になる。瀕死の境を彷徨いながらギリギリの一線で綱渡りをする。軽やかな鉛のような眠気も、キーボードで文章を打つ手が止まるたびにごく微妙に乱れる呼吸も、僕のアラートだ。僕のアラートだというキーワードを打ち込んだ途端、なぜな往年の奇妙なバンド、米米CLUBの楽曲が思い浮かびそうになる。だけどアラートという名前の楽曲はなかった。それを文章としてしたためるかどうかを迷う。あまりにも唐突ではないか。結果、手を進めることに決める。この判断がおそらく1秒ぐらい。自分の思考やその様式に対して敏感になる。何故か。低エネルギーだからだ。だいたいいつも眠くて死にそうだからだ。死にそうだと言っても絶望はまるでない。ただレモンティーのように酸っぱい味わいが体の中で続く。それだけだ。禅は低エネルギー状態の方が実践しやすいように思う。低エネルギーだからこそ全バランス感覚をもってして呼吸を整えなければいけない。苦肉の策より禅は生まれる。呼吸と姿勢の大事さが身にしみて分かる。この綱渡りのロープから1mmでもズレたら死ぬという感覚でバランシングする。エネルギー状態が高いとなんだかそわそわする。見過ごしやすいものを簡単に見過ごしてしまう。禅に切実に必要な静になることがしづらい。静寂の中に落ち着いて存在することが出来ない。だから僕は今日自分に低エネルギー状態が戻ってきたことを祝福したぐらいだ。それは眠気のレモンから脱出して、しばらくの仮眠から醒めたあとのことではあったけれど。隣では若い女性たちが両脇で雑談を続けているけれど、バックグランドの音楽にしか聞こえない。どうやら店内ではJAZZが流れ始めたみたいだ。僕はマクドナルドでも禅を実践する。禅の神様をマクドナルドとして崇めようかとさえ思う。僕が禅を実践できるのは、低エネルギー動物だからかもしれない。元気がないのも伊達じゃない。禅師になれるだろう。