ブログと承認欲求と宇宙と孤独

ブログを書く動機は

「これを、人に伝えたい!」

という強い気持ちだ。

 

少なくとも、僕の場合は。

 

何かの体験に感動した時。

何か驚くべき事実を理解したと思った時。

 

「これは、ひとりだけのものには出来ない」「誰かに伝えなきゃ」と思って、文章にしたためる。

 

「他の人に伝えたい」という原始的な欲求。初期衝動。

本質はそこから始まっている。

 

ブロガーのジレンマ

だけどここにジレンマが生じる。

 

こんなに「人に伝えたい」のに、

「こんなに伝わらない」「こんなにも人に読まれない」という事実に。

 

そんな事実を突きつけられていると、だんだんと、元々あった本質は変容してしまう。

まるで「こんなに好きなのに振り向いてくれない」という恋愛に似ている。

どんなに伝えようとしても伝わらないし、ただただ循環的に虚しいだけ。

 

多くの人がブログを始めてやめてしまうのは、この「承認欲求」が満たされないという理由も、小さくないだろう。

ブログには、アクセスカウンタがある。いいね機能もある。

ブログはおおむね、承認欲求を増幅させる悩ましいマシーンなのだ。

 

だから、

 

「人に伝えたい」という原始的な衝動から、

「ブログのアクセスが上がらない」とか「人に承認してもらえない」という社会的な悩みへと、僕らの意識はたやすく奪われるのだ。

 

ブロガーの孤独

僕がブログを書いている間は、恍惚感に溢れている。

だけどいったん書き終わった後、アクセス数やいいねの数なんかを気にし始めたら、それはブログに逆に魂を奪われている証拠だ。

 

まるでブログ(とかTwitterとかFacebookとかInstagramとか、フォーマットは問わないが)が、価値基準の全てになってしまったような感覚。

魂を捧げるのではなく、逆に奪われてしまっては、人生は楽しくない。

 

だけど、そもそもどんなにアクセス数を集めたブログの記事だって、1日やそこらが経過すれば、もう誰も見向きもしなくなってしまう。

そういう意味では弱小ブロガーもアルファブロガーも、承認欲求の悩みが生じ得る意味では本質的には変わらない。

(アルファブロガーが強い承認欲求を持っているかは分からないが)

 

アクセス数の多いブロガーはアルファブロガーを羨むだろうし、

アルファブロガーはYoutuberを羨むかもしれない。

 

トルストイの小説もやがて忘れられる

 

これを突き詰めていくと、たとえどんなに人に自分のコンテンツがリーチしようとも、いずれは忘れ去られる運命にあるという事実に行き当たる。

 

トルストイの小説も、やがて読まれなくなる日が来る。

ビートルスもいずれ忘れられる日が来る。

 

太陽もいつか燃え尽きる日がくる(ということが科学で証明されている)。

ブログを書いていると、人間の孤独の本質に向き合うかのようだ。

ブログを書くことのポジティブな理解

ブログを書くということを、こういう風に考えることも出来る。

 

  • 自分自身が読者であり、自己満足さえできればいい
  • たとえ誰も読者がいなくても、文章力を鍛える訓練になる
  • たとえ誰も読者がいなくても、自分自身を楽しませる娯楽になる
  • ひとつブログ記事を書けば自分の考えが深まる
  • ひとつブログ記事を書けば、リアルでも話のネタにすることが出来る
  • 海賊は力なり、継続さえしていれば、将来的にはもっと読者が増えるかもしれない
  • アクセス数は重要じゃない、誰かひとりにでも深い影響を与えられれば良い
  • 自分が死んだ後に、家族や友人の誰かが、ブログを読み返せますように(読み返さないだろうけど)

 

無数の「ポジティブな理解」を工夫することも出来るけれど、

大事なのは思考で対抗することじゃなくて、いかに肌でそれを感じ、ひとつの理解が腑に落ちているかとうことだ。

 

いくら頭で意識的にポジティブなことを考えても、心がそれを実感していなければ、まだ虚しいままだ。

 

ブログに魂を奪われたら

 

たまにはスマホもPCも持たずに、1日過ごしてみるのは、どうだろうか。

きっと「魂はブログじゃなくて、自分自身にある」ということを思い出せるはずだ。

 

アウトプットする習慣って本当に大事? ( ブロガーの悩み )

「インプットの趣味より、アウトプットの趣味を持ちなさい」という。

「日本人は、アウトプットをしなさすぎだ」と。

 

だけど、アウトプットにはアウトプットのデメリットもある。

それも、かなり大きなデメリットが。

 

と僕は思う。

 

アウトプットのことばかり考えてしまう

 

それは何かというと、たとえ自分がいつどこで、たとえ何をしていても

「この体験を、どうやってアウトプットしよう」

と考えてしまうことだ。

 

 

  • 映画を観ながら「この感想をどうブログに書こう」とか
  • 本を読みながら「学んだことを、どうアウトプットしよう」とか
  • 友だちと話しながら「この話をどうやってブログのネタにしよう」とか

 

 

 

そんなことを考えて、今、目の前で起きていることを、うまく体験できないケースによく出会う。

 

アウトプットの趣味があるからこそ、楽しめる時もあるれど、

アウトプットの趣味があるせいで、楽しめない時もある。

 

 

もし仮に、アウトプットなんか習慣がなければ、

もっと純粋にインプットだけを楽しめたのかもしれないのに。

 

アウトプットの趣味には、確実に「体験を汚してしまう」という性質があるように思う。

 

(僕はアウトプットの上級者ではないので、まだアウトプットとの付き合い方が下手なのだ)

 

インプット VS アウトプット

 

僕が最近強く思うのは、

アウトプットな趣味を楽しむことが出来るのは、あくまで、

インプットのクオリティが保たれてる場合に限られるということだ。

 

つまり、アウトプットによって、インプットの質が落ちてしまっては、本末転倒だ。

 

たとえば、腹が減っては戦は出来ない。

お金がなければ物を買うことは出来ない。

息を吸わなければ吐くことは出来ない。

同じように、インプットしなければアウトプットは出来ない。

 

インプットの質を落としてまでもアウトプットするのは、最も大事な部分、魂を奪われているようなもんだ。

 

「ファーストアルバムが一番良いアーティスト」は

 

たとえば音楽のアーティストでも、作品を作ることばかりを考えて、スタジオにこもっていても、きっと良い作品は出来ないだろう。

 

たとえば一般的に、アーティストの最初の作品というのは、それまでの人生のインプットを全て詰め込むものだから、濃密なものになりやすい。

(例外もたくさんあるだろうが、それは成功したアーティストだ)

 

だけど、ほとんどのアーティストの作品が、時間が経つほど薄まってしまうのは、まさに「インプットが尽きるから」ではないかと思う。

だから、実はアウトプットよりもインプットのほうがずっと大事なのだ。

 

潤沢なインプットと、成果物のアウトプット

土地を耕す。

種をまく。

 

時期を待つ。

そして収穫する。

 

農作に例えるなら、この前三つがインプットで、最後の一つだけがアウトプットだ。

 

僕らが実際に「成果物」を収穫するまでは、目に見えない色々なプロセスが働いているのだ。

 

と僕は思う。

 

まとめ

良質なインプットをしよう。

良質なアウトプットをしよう。

 

良質なインプットは、アウトプットの5倍大事にしよう。

 

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いろいろなブロガーのイラスト | かわいいフリー素材集 いらすとや

スマホはたやすく魂を奪う ( デジタルデトックスやってみた )

人生ではじめて、意識的に携帯を持たずに出かけてみた。

タブレットもノートPCも持たずに出かけた。

 

持っていったのは財布と鍵ぐらい。

 

わりと勇気が必要な決断だった。

だけど挑戦だ。

 

変化 ( いつもの休日と違ったこと )

何度も時間を見ようとするが、スマホがないことに気付く

ふと時間が気になっても、今が何時か分からない。

そして「何時だろう?」「スマホがない」という手順を何度も繰り返すうちに、だんだんと、時間そのものが気にならなくなってきた。

良い意味での学習性無気力とでもいうのだろうか。


あと、街には意外に時計が少ない、ということにも気付いた。

 

面白いものを見つけて、写真を撮ろうとするが、スマホがないことに気付く

写真に撮れないから、ちゃんと立ち止まって、経験しておかないと、という気持ちになった。
なのでふだんよりじっくりと対象を見たり、音を聞いたりしてみた。

たぶん立ち止まる時間は、スマホを持っている時より2倍ぐらいになった。

 

実はこの挑戦を始める時、最初は、写真ぐらいは撮れるように

SIMカードだけ抜いてスマホは持っていこう」とか

「ずっと機内モードにしておこうか」とか思ったのだけど、

思い切って「まったくスマホを持ち歩かない」という決断をした。

 

(なぜなら今回の目的は、電子機器がどれぐらい「体験」を濁してしまっているかを確かめたかったから、完全にやってみたかった)

「トマト カロリー」とか調べ物をしようとするが、スマホがないことに気付く

でも、調べ物をしなくても死なないことが分かった。

 

街行く人の顔がよく見えた

不思議なことに。

たぶん意識の状態が変わったんだと思う。

 

ふだんは、たとえスマホを直接触っていない時間でも、なんとなく「ポケットにスマホがある」という感覚があって、それに意識が奪われていたんじゃないだろうか。

(たとえば、ある研究によると、人と話す時、テーブルにスマホが置かれているだけで、人の意識は逸れてしまうという)

 

「ポケットにスマホがある感覚」「いつでもスマホを触れる感覚」がないだけで、かなり意識の状態が変わったように思う。

 

選択肢が減って、目の前のことに集中できた

「選択肢が多い」ということは、それだけ心が迷いやすいということでもある。

 

たとえば読書をしていても「この感動をブログに書こうか」「いや、それとも読書を続けようか」という判断をしなくて済むのは大きい。

ただ読書に集中することが出来た。

 

何の記録も残らない、シェアもしない体験

こんな休日を過ごしても、1枚の写真も残らないし、SNSにもシェア出来ない。

だけど、だからこそ、なんて美しい体験なんだろうと思った。

儚いものほど美しい。

(写真を撮って後から見返す素晴らしさも、十分に知っているけれど)

帰宅後、スマホやPCを触った時に、新鮮さを感じた

惰性で触ってしまうのではなくて、まったく新しいもののように感じた

感想

実は僕は日頃から、電子機器に心を奪われず、目の前のことに集中する訓練をしている。

だけど「スマホを持ち歩かない」挑戦は、さらに35%ぐらい、体験の質を高めてくれたように思う。

(逆に普段、無意識に、それだけ電子機器に意識を奪われているということだ)

 

スマホを持ち歩かない休日は、

 

スマホやブログの中に魂はない」

「本体はこっちだ!」

 

という感覚を高めてくれた。

 

週に1度ぐらいは、まったく電子機器を持たずに出かける日、デジタルデトックスの日を作ってみても良いかもしれない。

 

それでもブログを書いたりする?

電子機器を持ち歩かずに、1日の最後に書くブログというのも、なかなか良いものだ。

問題なのはたぶん、スマホSNSのことが1日中頭の中にあって、常に現在の体験を汚してしまうことだから。

 

 

 

 

ブックカフェで相席する方法 ( LUCUA 1100 梅田 蔦屋書店 より )

ブックカフェで本を読んでいる。

すると、右の席で、奇妙なことがおこなわれていた。

 

ひとりのおじさんが、ひとりの男に、

「ここよろしいですか?」と訪ねて、目の前に座る。

 

だが男は、何も答えない。

そのままおじさんは、男の向かいの席に座った。

 

「世の中には、勇気のある人もいるんだな」と思っていた。

そしておじさんはやがて、席を立った。

 

だがその30分後、また別の女性が

「ここ、よろしいですか?」と、男に話しかけた。

 

男はまた、なにひとつ答えない。

目の前の人に、視線さえ合わせない。

 

なんなのだろうこれは?

なぜ右の席の男に、かわるがわる人が訪れて、相席をしていくのだろうか。

 

しかも、お互いは知り合いでもなく、男は拒絶をするでもなく、ただ沈黙によって相席を受け入れ、そして、人が入れ替わってゆくのだ。

(僕が見る限り、全部で3人分の相席を、右側の男は受け入れた)

 

これは何か重大なことが、裏側でおこなわれているような気がした。

 

もしかしたらネットで相席を募集して、

「ブックカフェで相席してみるイベント」でもおこなわれているのかもしれない。

だけど仮にそういうイベントであれば、男が沈黙しているのは奇妙だ。

「あ、田中さんですか?」「あ、はい、へへへ」みたいな、てへっとした挨拶のひとでもあっても良さそうなものだ。

 

もしかしたら店の公式サービスとして

「相席申込書」のようなものがあるのかもしれない。

いや、それはないだろうけれど。

 

もしかしたらこの小説が立ち並ぶブックカフェで、まるで小説チックな取引が、秘密裏におこなわれているのかもしれない。

誰もスーツケースは持っていなかったけれど。

 

なぜ、右側の男だけなんだ。

右側の男だけに相席の相手が訪れ、そして去ってゆくのだろう。

 

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そうして、さらに数時間も経ったころ、

「ここよろしいですか?」という声が、またまた聞こえた。

 

だがそれは、右側の男に対してではなく、この僕に対してのものだった。

 

「ここよろしいですか?」の流れがあまりに綺麗すぎて、

僕は思わず「はい、よろしいですよ」と言って、PCやら本やらを広げてあった、テーブルのスペースすら空けた。

 

そして今相席をしながら、本を読んだり、こうしてブログを書いていたりする。

 ( ところで人の足に肖像権はあるのだろうか )

 

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このブックカフェでは「相席力」の高い常連さんがいて、

流れるような動作で「居心地の良い席」を確保しているのかもしれない。

 

ちなみに、まったく嫌な経験ではなかった。

一瞬だけ見知らぬ人と話すというのも、良いものだ。

 

( 今度来たらあの右の、一番相席されやすそうな席に座ってみようか )

 

小説を読むということ

小説を読むと、確実に自分の心に影響があるということを知った。

 

例えばふだん、頭の中でつぶやく思考のスタイルが、少しだけ変わる。

とめどなく頭の中に流れてくるセリフが、やや小説口調になる。

 

 

頭の中の言葉が変われば、世界の捉え方も少し変わる。

ふだん、自分が当たり前だと思っている、自分というものの認識にくさびが入れられる。

 

小説を読んで、少しも自分の思考に影響を受けないということは難しい。

 

 

 

スタンダードな現実と小説の現実

 

たとえば、こう考えてみる。

たとえば世界の観方というものが10000種類あるとしたら、

僕らが普段見ているのは、その中の1種類に過ぎない。

 

スタンダードな現実。

社会的な現実。

そのレールの上にいることで、僕らは意思疎通することが出来る。

 

だけど、あくまでそれはレールにすぎない。

 

小説は役に立つか立たないか

 

「小説を読んで何になるの?」

「現実の役に立たないじゃん」

と思うのは、それは1種類の現実だけの話だ。

 

小説はそもそも「別のタイプの現実」の存在を知らせてくれるわけだから、

僕らのスタンダードな現実の尺度で推し量ることは、まったく出来るはずがない。

 

世界Aの貨幣は、世界Bでは使えないのだ。

逆もまた然り。

 

小説を読むという体験を

非常に優れたものだと感じる。

文字情報を認識して、抽象的な理解をするという、人間の脳の高度な働きを目の当たりにする。

 

たった500円ほどで、ここまで上質の体験をもたらしてくれるものは、他にはなかなかない。

僕らに必要なのは少しのお金と、あとは集中力だけだ。

 

こんなに小説が素晴らしいものであっても、やがていつか、忘れ去られる作品もあり、太陽も燃え尽きて、この地球も消えて、紙も燃えてしまうのだな。

なんてことを考えたりする。

 

一生ですべての小説を読むことも出来ないし、仮に出来たとしても、すべてを二冊ずつ読むのは難しいだろう。

 

小説を読むということは

人間にとって一体なんなのだろう。

その定義がまず、難しい。

 

小説が僕に訴えかけてくるメッセージは、こうだ。

 

「定義するな!」

 

 

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時間を忘れて生きられますか?

ちょっと難しいけれど。

 

あまり、時計なんかは見ずに生きれば良い。

 

一番大事なのは、心の中で時間を思い出さないこと。

 

たとえば休日にどこかの店、本を読んで過ごしている。

 

「あと何分、この店にいられるだろう?」

「どのぐらい経ったら、次の場所に行こう?」

 

そんな思いが心に現れるたび、目の前の、本のページに意識を戻す。

物語の世界に帰る。

 

そしていつの間にか時間が経って、

コーヒーを5杯も頼んだりして、

「お客さん、閉店ですよ」と告げられて、はっとする。

そんな過ごし方が、時間を忘れる生き方。

 

そんな風に、いつの間にか夜が来てしまっても、時間を無駄にしてしまったとは思わない。

なぜなら、時間自体を忘れているから。

 

 

ところで僕らというものは、あまりに時間というにものに慣らされているから、

時間がない世界を思い出すのは、普通ではなかなか難しい。

 

 

だけど時間を忘れた世界というのは、きっと、いちどもシャワーというものを浴びたことのない人が、はじめてシャワーを浴びたり。

そういうことに似ていると思う。

 

 

騎士団長殺し 読了 2017.06.13

美味い食事を食べ終わる時が切ないように、

面白い物語を読み終わる時も切ない。

 

あと一口食べたくなるし、あと1ページ読みたくなる。

小説はいくら摂取してもカロリーにならないのが良い。

 

約1ヶ月ほど、ブックカフェに通い続けて読み終えた。

( 本代は払ってないけれど、お茶代はたくさん払った。そのあたりの勘定は、コーヒー店と本屋でいい塩梅にやってほしい )

 

紙の本と電子書籍の一番の違いは

「手に持って、あとどれぐらいのページが残っているのか、重さで分かるか分からないか」かもしれない。

 

何かが起きているようで、何も起きていない、でも何かが起きているような物語。

サスペンスでもない、ミステリーでもない、謎解きがあるようでない、こんなに掴みどころのない小説がベストセラーになるのは、なんて素晴らしいんだろう。

 

解説サイトや、他の人の感想は読まずに過ごしたい。

それとも誘惑に負けて、この小説を読んだ体験を濁してみようか。

 

 

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この小説について文章で語れるほど、僕には語彙がない。

だけどたぶん、脳は文章の隙間から、物語のニュアンスを感じていた。

 

言葉にならない部分が一番美味しい。

それが小説というものかもしれない。