プログラマに必要なのは危機感?好奇心?
プログラミングの原始衝動にしたがって、本当にピュアに、ただ喜んで、好奇心だけでそれをする感覚が分かる。
これは素晴らしい世界だ。
だけどいったん自分の生存のことを考えると、急に夏休みのあたたかな森が、恐いジャングルのように思えてくる。
ひとつの物事でも、スポットライトの当て方ひとつで、まるで世界が変わって見える。
好奇心に突き動かされるのは素晴らしく、その逆に、生存本能のために突き動かされるのは、果てしなく苦い。
「プログラマはこうしなければ生き残れない」という言葉を見るたびに、後者が過敏反応してしまう。
プログラマが漠然と感じる将来への危機感、不安というものは、これなのではないだろうか。
いや技術職全般というべきか。いや職業全般とさえ言えるかもしれない。
不確定な未来に対して、生存のために、どれだけ果てしないコストをかけるべきかの予測。
もともと体力のない人は、波に怯えやすい。
生存あるいは社会的報酬に対して、明らかに支払うコストが大きいとなると、誰しも「そんな苦労はしたくない」と思うだろう。
いやSかMかという体質にもよるだろうけれど。
とにかくコスト感を嫌う性質の人からすると、コストがかかると聞き及ぶだけで、生存さえ諦めてしまいそうな反応が起こる。
A. 危機感を持って、危機感を楽しめるプログラマ
僕はおそらく、この最後のDでありたいのだと思う。 甘い話だろうか。
おそらく僕にとって「ピュアな原始衝動の好奇心に突き動かされる」ということと「生存本能の危機感に突き動かされる」ということは、真逆に位置している物事なのだ。
なので、この二つの両立が必要であると聞き及んだ時に、意識が混乱し、大きな問題意識として引っかかったのだと思う。
マトリクスはいつでも役に立つ。
ただどんなマトリクスを描くかが肝だ。
危機感を持って学習するプログラマ <-> 危機感を持たず淘汰されるプログラマ
この単純な二極構造から、好奇心軸と、危機感軸の四面図に明確に落とし込めたのは、今回、非常に大きな収穫だったように思う。
僕は正直、危機感がないというか、危機感というものを毛嫌いするというか、本当にコストというものを嫌う性質のプログラマであり、人間だ。
このことは最近、深く気付いた。
それでもどうにか、自営業時代も含めると、合算15年ほどは生きていられる現状はある。今後どうなるかは分からない。
正直なところ、危機感を持って学習するプログラマの方が、はるかに優秀になれるし、生存可能性を高められるのだろうと思う。
僕でも、危機感を持たなければいけないんだろうなあという漠然とした危機感はある。
だけどそもそもプログラミングの仕事を愛すること、エンジニアの仕事を続けたいというのは、好奇心の原始衝動やらに突き動かされたり、問題解決行為をパズルのように楽しむことなのだから、危機感に追われるというそのものの本質が、僕の気質とは合わないんだろうなと思う。
人間の好奇心というものは、本当に脆弱で、すぐに灯火のように消えてしまうものだという感覚がある。
特に生存本能の恐怖に突き動かされる時には。
ジャングルで毒蛇やタイガーや狼に怯えている時は、夏休みの昆虫採集などしている場合ではなくなってしまう。
なので僕は、たとえこれが甘い夢だとしても、決して危機感というものに動かされるのではなく、ただひたすらに、小さな好奇心、原始衝動、灯火のように消えやすい子供の心を大事にして、あくまで社会的生存のためではなく、自分の本能をコアにおいてプログラマの仕事というものをしたいのだ。
もちろんこれは与えられた業務をこなすということとは、いささかも矛盾しない。
どのような業務の中にも、好奇心の種や、問題解決の種はいかようにも含まれているであろうからと、あくまで休職期間中の稲浦という男は、補足を加えることにしたようです。まる。
今日もTwitterでプログラマの仕事というものについて、大いなる問題意識の浮上と、その暫定的解決をおこなえたから、とても良い朝だ。
すっきり気分が晴れたような気がする。こうしていったん心理的な問題解決をはかっておくと、本当にこれは生涯役立つ。何度でもマトリクスを思い出せる。
段々と語ることも見つからなくなってきたところで、この連続ツイートのマラソンは、準備体操もヒートアップもクールダウンの段階追えて、ようやくエピローグを迎えているのだということは、昨日得たメンタルモデル的な知見によって自己認識。
ところで茂木健一郎も朝の連続ツイートとかしてたよね。
じゃあタイトルをつけようか。
今日こそは昨日できなかった、Twitterのツリー構造から自動でMarkDown作成してブログ化ということやりたいのだから。そうですね。いつでもやることの見積もりって、どんな優秀なプログラマでも過剰に外れるものですもんね。