「一緒にいてもスマホ?」 「旅の時はスマホを置け」など。
この記事を読んだ。
ひとつの記事は、それを肯定の立場からも、否定の立場からも読むことが出来ると思う。
自分は最近、デジタルデトックスというものをやってみて、その素晴らしさに驚きを覚えたので、最初は否定の立場から読んだ。
1日経ってみると、肯定の立場から読むことが出来た。
だが重要なのは肯定・否定の意見ではない。
肯定するにせよ否定するにせよ、電子機器との付き合い方、特にスマホとの付き合い方というのは、これからの人間にとってかなり大きな課題になってくると思う。
スマホの使い方はお上手?
ひとつ。
人類にとってスマホは、ごく最近現れたばかりのツールだ。
なので多くの人はおそらく、まだスマホに対してリテラシー(うまく扱う技術)を持ち合わせていない。
たとえばファミコン(昔の据え置き型ゲーム機)が家庭に普及し始めたばかりの頃は、それは悪魔の機械であるかのような扱いをされたという。
だが既にファミコン発売から数十年が経ったいま、ファミコンに脅威を覚える人は少ないだろう。
つまり、時を経てファミコンへの誤解が解け、偏見が溶かされたのだ。
いや、だが、本当にそうだろうか?
「ファミコンへの偏見がなくなった」という、それこそがまさに、誤解なのかもしれない。
実はファミコンが誕生したばかりの頃は、僕らがリテラシーを身につけていなかったせいで、実際に「悪魔の機械」という側面があった可能性もある。
変わったのはファミコンの方ではなくて、僕らの接し方、リテラシーなのではないだろうか。
スマホに魂を奪われる?
いつでも、どんな時でもスマホを触ることのデメリットは、
「自分の体験の質を落としてしまう」
「他人の体験の質を落としてしまう」
ということに尽きると思う。
知らず知らずの間に奪われているのが注意力というものだからだ。
スマホは道具だ。
そして最大の特徴は、スマホが意識にどういう影響を及ぼしているかということは、他人から見てもわからないこと。
他人が「うまく使えているかどうか」「脳の集中力が奪われていないかどうか」ということは恐らく、脳波でも測ってみない限りは分からない。
僕自身といえば、1日まったく電子機器を持ち歩かずに過ごしたら、電子機器がいかに意識状態に影響を与えていたかということが、本当によく分かった。
つまりこれは、スマホの影響を過小に見積もりすぎていた例だ。
逆に「旅の時はスマホを置け」という人は、スマホをうまく扱える人に対して、
その影響を課題に見積もりすぎているのかもしれない。
スマホリテラシー
僕のようなリテラシーの低い人間は、たやすく魂を奪われてしまう。
だけどたとえば、赤ん坊の時からスマホを触っているデジタルネイティブは、本当にうまくスマホを扱えるのかもしれない。
だが、たとえばメールというものが普及し始めて既に十数年は経つが、調査によると、仕事でも深刻な「注意力障害」を引き起こしているという話もある。
こればかりは、正確なところ、大規模な調査をおこなってみないと分からない部分だろう。
まとめや雑感
- 「スマホとうまく付き合えている」と思っていても、実は、注意力をそがれているかもしれない
- 他の人がスマホを触るのを見て「けしからん」と思っても、実は、当人はうまく扱えているのかもしれない (自分がうまく扱えないので、他の人もそうだと思いこんでいるのだけかもしれない)
- 道行く人が「首なしゾンビ」になっている光景は恐いけど、自分がスマホを触るのは楽しい
- 「楽しみを削がず、経験の質を下げない」という最低条件を満たす限りにおいて、スマホは素晴らしいツールだと思う