TOSHIと洗脳と空と雲

その昔、もう20年前ぐらいだろうか。

 

X-JAPAN の TOSHI が洗脳を受けていると話題になっていた時、

本人がバラエティ番組でこんなことを話していた。

 

「たとえば空にはソラという名前が付いているけど、僕たちがそれにソラっていう名前を付けて呼んでいるだけで、本当はなんでもないもの、なんだかよく分からないものじゃないですか」

 

というようなことを。

 

この話を聞いて、ぽかーんとする司会者やコメンテーターたち。

(番組のエフェクトで全員の頭の上に「はてなマーク」が付与されていた)

 

だけど僕はこの話が、ある程度腑に落ちた。

 

「ソラ」というのはあくまでも人間が付けた名前。

そこに「クモ」があって「アメ」が降ったりする。

だけどその全ては、人間が都合の良いように、その「機能」に対してラベリングをしただけのものだ。

 

だから、もし言葉というラベルをすべて外してしまったら、

きっと空に対しても、雲に対しても、今までとは全く違う見方になるはずだ。

というよりも、たぶん空や雲という区切りさえも曖昧になるか、消滅してしまうことだろう。

 

このTOSHIの言葉が、元は誰の思想かは知らないけれど、物事の本質を突いていると思う。

(いや「物事でないもの」の本質とでも言おうか)

 

だけど、この話を聞いてぽかーんとするということは、

僕らの多くは本当に「人が付けた名前」とか「人間が物事に与えた役割」の世界に生きているんだなと思った。

「名前付けが存在しない世界」なんて、思い出すのさえ一苦労だろう。

 

ところで、洗脳騒動よりも前に発売された「碧い宇宙の旅人」は本当に癒される良いアルバムなので、ぜひ聴いてみてほしい。

 

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音楽は恋愛に似ている

音楽を聴くのは恋愛に似ている。

 

世の中には無数の音楽が存在するけれど、いちどに聴ける曲、いちどに愛せるの曲ただひとつだけ。

ひとつの曲を聴きながら「他の音楽を聴きたい」なんて空想にとらわても、目の前の音を愛することは出来ない。

全ての音が浅く聞こえてしまうだろう。

 

仮にいま聴いているものが、その時に最高の音楽ではないと思えても。

「世界中には、もっと今の自分にふさわしい音楽が存在する」ということが、仮に、理論的には実証できるにしても、いま目の前にある音楽を聴くことは美しい。

 

最近では音楽の「アルバム」という概念が希薄だ。

だけど、たとえば昔ながらの1枚のアルバムの中には、色々なナンバーがある。

 

最初から最後まで通して聴いていると、途中には面白くない曲もあるかもしれない。

だけどそこで再生を止めたり、スキップしたりしない。

嫌いな部分が見えてきても、理解してみよう、まずは受け止めようという努力をしてみる。

そうすれば、好きになれる部分があるかもしれない。

 

あとは、距離感の問題がある。

目の前にある音楽にはまりこむのではなく、逆に無関心になるのではなく、お互いの間に適度な距離を見つけたい。

なぜなら、音楽と自分とをつないでいるのは「関係性」だから。

良い距離感を見つけられた時は、音楽と自分の関係性が、ぐんと良くなったような感じがする。

 

 愛する人と接するように、音楽を聴く。

これが音楽を聴く時のコツだと僕は思っている。

 

イヤホンで音楽を聴かなくなった

必要がない時は、無音で過ごすようになった。

 

音楽は素晴らしい。

今までに人類が生み出した中でも、ほとんど救国に近いもの。

 

だけど音楽を1日中流し続けていても、それがずっと、心にも流れてくるわけじゃない。

 

多くの場合は、無感覚。

 

むしろ音楽を流し続ければ流し続けるだけ、何も感じられないようになってくる。 

バックグラウンドミュージックとして、おそらく気分の8.2%ほどを変えてくれるだけ。

 

そこには人生が、日常が、音楽とシンクロするような感覚は無い。

垂れ流されているだけの、ただの音。

 

最近は、音楽は家で聴く。

スピーカーの前にじっと座って、音楽が自分に与えてくれるものを、全て受け取ろうとする。

 

たとえば、愛する人が発する言葉を、全て聞き逃さずに受け取ろうとするように。

 

音楽はあまりにも当たり前のものになりすぎて、こんな聴き方はずっとしていなかった。

 

今日聴いていたのは、布袋寅泰のRock'n'Rollカバー。

知らない曲が流れてきて、タイトルを見ると「LOVE IS THE DRUG」。

 

口笛を拭いた。

(正確には僕は口笛が吹かないので、口笛を吹いたかのような声を出した)

 

 

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小学生の頃、準不登校扱いになった時の話

小学生の頃。

母が、いつもにはない、ややきつめの口調で、学校をさぼりがちな自分を諌めたことがあった。

 

自分では意識していなかったのだが、その時期は「お腹が痛い」と言って休む日が多く

学校では「準不登校」のような扱いになっていたらしい。

ストーブで体温計を温めたりしてまで、風邪を装っていたことを覚えている。

 

だが、母のたったひとことで、数秒のうちに、学校を休みたいという気持ちは、まるで消えてしまった。一瞬の芸当だった。

(正確になんと言われたのかは忘れてしまったが)

 

その時期、自分が学校をサボりがちだったのは、別に心理的理由とか、何か重大な理由があったわけではなくて、

単に「学校に行かないほうが楽だから、サボりたい」という、単にそれが慢性化しただけのものだと思う。

 

単純に、人間は怠惰に流されやすいものである。

大人になった今でも「会社は自由に休んで良いよ」と言われれば、休みがちになるかもしれない。少なくとも毎日定時に出勤できる自信はない。

 

いかに働くことが素晴らしくても、脳はもし許されれば、極力、エネルギーを省力化しようとするものだ。

 

なので学校に行く強制力、会社に行く強制力というものは、ある意味、ありがたいものだと思う。

自分の意志に関わらず早起きが出来て、勉強や仕事が出来て、大人ならばお給料がもらえる仕組みになっているのだから。

 

 

音楽と愛について 〜布袋寅泰の SUPER SONIG GENERATION を聴きながら〜

もう20年も前に発売されたアルバムだ。

 

再生機器が変わったせいだろうか。耳が肥えたせいだろうか。 

昔に聴いた時よりも、音の粒がより鮮明に聴こえる。

 

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2017年8月26日。

まさに今日、この瞬間に、このアルバムを聴いている人間は、世界中でたぶん自分一人だろうな、なんて考えながら、1曲目から最後の曲までを再生する。

 

音楽が愛されるということは、こういうことなんじゃないだろうか。

 

今、流行っているわけではない。

決してメジャーなわけでもない音楽を、楽しんで、味わう。

その音楽と一緒に、1日の時間のうち、何十分かを過ごす。

 

こういった体験は、布袋寅泰本人には、まず伝わりようもない。

こうやってブログに書かれる例でさえも、あくまで稀な例だ。

 

世界中で、絶えず音楽というものは聴かれ続けているけれど、そのほとんどの「体験」は、文章化にされたりせず、形は残されない。

ただ僕らの人生の中を、クオリアのようなものとして通り過ぎていく。

 

ファンレターが送られたり、Amazonのレビューに書き込まれたりするものは、ほんのごく一部だ。

つまり音楽を聴くという体験の99%以上は、形としては残らない。

 

逆に言うと、このように秘密裏におこなわれる「体験」は、あわせれば膨大な数にのぼるし、

たとえば他の人には見つからなくても、世界の片隅で、音楽が愛される時間は存在することになる。

 

音楽を愛するということは。

 

 

 

落とし物をエンターテインメントに変える方法 〜アリエルのスマートフォン〜

今日、僕が街を歩いていると、忘れ物らしきものが置かれていた。

 

カルピスサイダーと、アリエルのスマートフォン
あまりにも堂々としていたので、最初は「持ち主は近くにいて、ただ置いているだけ」かとも思った。

 

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だけど本当に忘れ物かもしれないので、ちょっと見守ってみることにした。
だけどなかなか持ち主が現れない。どうやら忘れ物確定だ。

 

アリエルのスマートフォン
しばらく待っていると向こうから電話がかかってきて、僕が対応する。

そこに美女が現れる。
なんて風景を想像しながら。

 

だが、一向に電話がかかってくる気配はない。


端末はもちろんロックされているし、誰かから連絡があった痕跡もない。

虫に噛まれたりして、かゆいので、仕方なくこの敷地の受付に届けることにした。

  

ちなみに最初からそうしなかったのは、いちど落とし物として届けてしまうと、
逆に連絡がとれなくなったり、手続きが面倒になるかも、と思ったからだ。

 

あとは、本当に落とし主から連絡があって「僕が守っておきましたよ!」ってなったら、ちょっと面白いかもと思ったから。

 

しかし、このままでは落とし主が戻ってきた時に、
敷地の受付に問い合わせよう、と思いつくとは限らない。

 

何らかのメモを残しておいたほうが良いんじゃないか? と思った。
だが手元にはメモもペンもない。

それだけのために、メモとペンをコンビニで買うのも、資源がもったいない。

 

「そうだ、近くのLOFTなら、文房具コーナーにペンとメモが置いてあるし、それでメモを作ろう」と思いついた。

僕は自分のアイディアに驚嘆しながらLOFTに入った。

 

 

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そして文房具コーナー。

 

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「こんなことは滅多にない機会だ」
「よし、この体験をブログにアップしよう」

 

と思いながら写真を撮る。

 

(と同時に「これって偽善者っぽくない?」「ブログにアップしたら叩かれない?」という小さな声も聞こえてくるので、軽く無視する。大丈夫、僕のブログは誰も読んでない)

  

そしてメモを書く。

 

 

 

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こんな紙もあったので、ダジャレを書いてみる。
あまりに寒いので、ボツにした。

 

 

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しかしこのメモはポスト・イットではないので、
たやすく風に吹き飛ばされてしまうかもしれない。

 

そうなると、このメモを固定するための仕組みも必要になる。

だがしかしここはLOFTだ。なにかあるはず。

 

探してみた。

 

この機会に、粘土みたいなものを買って、残りで自宅で遊ぼうかとか。
柄付きのテープを買って、職場で使おうかとか。

 

色々と考えた末。

遂に見つけた。これだ。

 

ハート型のカード立て。

 

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となると次に必要なのは、ただの紙ではなく、カードだ。

幸運にも、カードコーナーには、アリエルのカードが売られていた。

 

必要なものは、全て揃った。

 

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お会計。

ふたつ合わせて500円ぐらいだった。

 

 

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そして元の場所に、こうだ。

 

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たった1時間ぐらい。
かけたお金は500円ぐらい。

 

だけどこれをやり終えた時、
なんとも言いようがないような高まりを感じた。幸福感とさえ言っても良かったかもしれない。

 

「普段なら思いついても、やらないようなこと」を実際にやってみたという、爽快感。

(ドヤ感と言っても良いかもしれない)
あとは、人のために行動したという、自己満足感だ。

(遊びながらではあったけれど)

 

ちなみに人間というのは「人の役に立った」と自分が感じた時に、
最も幸福感が高まるという研究もあるらしい。

 

別にそれは自己満足でも、思い込みでも良いのだ、たぶん。
ってことが、今回の個人的実験でも実証された気がする。

 

ということで、お金を払ってどんなカフェに行くよりも、
ゲームセンターやカラオケに行くよりも、

平凡な日常や、落とし物をエンターテインメントに変えてしまう方が、ずっと幸福感を得やすいのかもしれない。

 

さあみんな、今日から、街に良い落とし物がないか探してみよう。

 

 

良かったところ

  •  ブログに書けるネタが出来た
  •  人に話すネタが出来た (話すかどうかは分からないけど)
  •  500円と1時間で幸福感が高まった (なおかつ500円分、経済に貢献した)
  •  「落とし主が現れるかも」とドキドキできた
  •  ロフト楽しかった
  •  落とし主本人にメッセージが届かないとも限らない

 

補足

 

その後。

 

とある足長おじさんから「警察に届けたほうが良かった」という意見をもらったのだけど、
落とし物を見つけたら、警察に届けるのがベストなんだろうか。

 

たとえば居酒屋の落とし物は、まずは居酒屋で管理される。
スターバックスで落とし物を見つけたら、スターバックスの店員さんに届ける。

 
同じく、テレビ局の敷地内で見つけた落とし物は、その管轄であるところのテレビ局に届けるのが最適な行為かなと思ったのだけど。

これは「落とし物の常識」を僕が誤解しているだけなのかもしれない。

 

警察に届けたら、落とし主にとって、手続きが面倒になるだけかもしれない。

すぐにテレビ局に届けても、ちゃんと管理してくれるかは分からない。(向こうから電話がかかってきた時に、対応されるのかどうか、とか)

最適なのは自分が見守っている間、スマホの電池が残っている間に連絡があって、手渡しすることだ。

 

しかしいくら「最適解」を考えたからといって、それが本当に最適であるかどうかは分からない。

僕らに出来るのは、自分の知識や考えの中で、最適を尽くすだけなのだから。

 

ということで僕は

「しばらく見守る」

「テレビ局の受付に届ける」

「書き置きを残す」

という手順を取ることにした。


しかも、すぐ近くのテレビ局受付にスマホを運ぶだけでも、
「泥棒してませんよ!」
「ちゃんと落とし物を届けに、受付方面に向かってますよ!」
感を出すのに必死だったのに、

 

そこから20分も離れた警察署に人のスマホを持ち運ぶ行為は、よほど勇気が必要だったであろう。

それに夏だし。暑いし。

 
落とし物を見つけた時の最適行為とは何なのか。
良識や善意の定義とは何か。
スターバックスの店員さんのホスピタリティは何故ここまで優れているのか。
スプラトゥーンは何故強豪勢がひしめいているのか。
そして人間は何故生まれてきたのか。

 

そんなことに頭を悩ませた夜だった。

はじめての「ワールドカフェ」に行ってきた

ワールドカフェというのは、絵を描きながら、カフェのような落ち着いた場所で話し合うという、以前からある手法らしい。

 

そこで初対面同士、席に四人ずつ座って「テーマのあるフリートーク」をした。

 

ガチガチにテーマを決めるのじゃなくて、もっとゆるい感じ。

そして何か思いついたことがあれば、席に置かれた「ひとつながりの大きな紙」に、マジックで絵や文字を描いていく。

 

こうやって発想を広げながら、会話をつなげていくのだ。

(1回の席替えあり)

 

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ステージ1. 否定

残念ながら、ひとつのテーブルで僕が感じたのは「否定」だった。

 

その時のテーマは「こんな時代が来ると良いね」というようなものだった。

僕は「エネルギー管理」について話そうとした。

 

たとえば、ある日は仕事で疲れ果てるけれど、ある日はエネルギーの高まりを感じる。

でも、その理由は、自分では明確には分からないことがある。

人体の不思議というか、なんというか、隠されたルールが存在するように感じる。

 

なので科学を味方にして「iPhoneで手軽に自分のエネルギー状態を計測できる時代がやってくると良いな」と思った。

 

だけど僕がこの発想について(ごく断片的にだけど)話すと、

他の三人からは「自分の感覚で分からない?」「気の持ちようだよ」「運動すれば解決するよ」という反応を、それぞれ受け取った。

 

つまり僕の話に対して「否定」「否定」「否定」が繰り返されたことになる。

(少なくとも「話をよく聞く」「話を理解する」「同意する OR 共感する」というプロセスは、全ておこなわれなかった)

 

 

話を始めて15秒ぐらいの段階で「否定」のリアクションが素早く返ってきたので、

僕は自分が描いた絵に、「却下」と書き加えた。

 

こう書くと「否定されたと感じるのは、気にしすぎなんじゃないか」とか、

「話し方が悪かったんじゃないか」という風に思われるかもしれない。

あるいはそうかもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない。

 

しかし僕の場合は「会話のロジック」にとても敏感なので、否定された時も、同意された時も、わりとそれを察知してしまうのだ。

 

 

僕はマインドフルネスのトレーニングを積んでいるが

こういう体験は「社会的な自分」を小さく揺るがす。

ちょっと喉に小骨が刺さったときのような感じがした。

 

 

ステージ2. 共感

 

もうひとつのテーブルで感じたのは「共感」だった。

 

テーマは「今の日本から無くなって欲しくないものは?」というテーマだった。

 

「生命の安全」「食の安全」

通天閣文化遺産にした方が良い」

「お祭りは無くなって欲しくない」

「無くなって困るものには、普段は気付いておらず、無くなってから初めて気付く」

通天閣が突然無くなったりしていたら、かなりビックリするだろうな。普段は10年に1度も行かないけど」

「そういえば、有名なケーキ屋が、跡取りがいない問題で、閉店したらしい」

「そうか、文化を守るには後継者や、守る人が必要だ」

 

というように、お互いがお互いの話に共通性を見つけ、絵を描きながらそれぞれをつなぐ。

「共感」を目指した話し合いをしていたように思う。

 

絵を描きながら話していると、それは脳のシナプスのような模様を描く。

それぞれの脳細胞がうまく結合できるかどうか。

 

お互いの会話同士が「アクセス地点」を持てたかどうかが、白紙に映し出されていくようだ。

 

ステージ3. まとめ

席が変わり、話す相手が変わるだけで、これほどまでに「共感」と「否定」がスイッチする。

このギャップを短時間に感じたのは、はじめての経験だった。

 

これだけだと、最初の席の人に対しての悪口になってしまうかもしれない。

 

だけど印象に残ったのは、主催者の人の言葉だ。

 

「共感を感じたかもしれない」

「話が噛み合わなかったかもしれない」

「それぞれの印象があると思う」

 

というようなことを話されていた。

 

そこで思ったのは、自分が否定や共感や、そのギャップを感じることまでを全て含めて、

この場所の存在意義があるんだということだ。