「人工知能が仕事を奪う」って煽りすぎ
いつの世の中でもビジネス書は
「これを身に着けないと、これから先は生き残れない」
という煽り文句がキャッチフレーズだ。
本のタイトルは出版社が付けるものなので、作者の意図とは関係なく、煽り気味になるのは仕方ないかなと思う。
物を売るには、不安を煽れというから。
だけどたとえば、この本は今から
「人工知能時代にあわせた子供の今日育て方」を問いているように見える。
だけどまだ、人工知能というのは世の中全般的に取り入れられているわけではない。
たとえば今子供が生まれたとして、大人になるのはだいたい20年先。
20年先の世の中で、人工知能がどう社会に組み込まれて、役立っているのかなんて、ほとんど予測しようがない。
「未来予測の精度の低さ」というものを、いままで歴史的に学んできたはずだ。
それに人工知能をどう使うかというのは、「これからの僕らの選択」なのだから、どちらにも転ぶ可能性がある。
人工知能はおそらく、人間や動物の幸福のために使うことが出来るはずだ。
よりエコなシステムを組んだり、健康に役立てたり、幸福のレベルを定量的に測ったり。
もしかしたら戦争だって無くせるかもしれない。
(今まで人類の技術は全て、軍拡に貢献してきたイメージがあるので、期待はできないが)
だけど多くの場所で「人工知能に仕事を奪われる」という文脈で語られるのは、なんとも、もったいない話だと思う。
僕は人工知能に期待するのは、より科学的・統計的に「人間の意識・健康・幸福」の研究が進んで、個人個人がより正確な人間像を持ち、適切に幸福を得られるようになる時代が来ることだ。
「一緒にいてもスマホ?」 「旅の時はスマホを置け」など。
この記事を読んだ。
ひとつの記事は、それを肯定の立場からも、否定の立場からも読むことが出来ると思う。
自分は最近、デジタルデトックスというものをやってみて、その素晴らしさに驚きを覚えたので、最初は否定の立場から読んだ。
1日経ってみると、肯定の立場から読むことが出来た。
だが重要なのは肯定・否定の意見ではない。
肯定するにせよ否定するにせよ、電子機器との付き合い方、特にスマホとの付き合い方というのは、これからの人間にとってかなり大きな課題になってくると思う。
スマホの使い方はお上手?
ひとつ。
人類にとってスマホは、ごく最近現れたばかりのツールだ。
なので多くの人はおそらく、まだスマホに対してリテラシー(うまく扱う技術)を持ち合わせていない。
たとえばファミコン(昔の据え置き型ゲーム機)が家庭に普及し始めたばかりの頃は、それは悪魔の機械であるかのような扱いをされたという。
だが既にファミコン発売から数十年が経ったいま、ファミコンに脅威を覚える人は少ないだろう。
つまり、時を経てファミコンへの誤解が解け、偏見が溶かされたのだ。
いや、だが、本当にそうだろうか?
「ファミコンへの偏見がなくなった」という、それこそがまさに、誤解なのかもしれない。
実はファミコンが誕生したばかりの頃は、僕らがリテラシーを身につけていなかったせいで、実際に「悪魔の機械」という側面があった可能性もある。
変わったのはファミコンの方ではなくて、僕らの接し方、リテラシーなのではないだろうか。
スマホに魂を奪われる?
いつでも、どんな時でもスマホを触ることのデメリットは、
「自分の体験の質を落としてしまう」
「他人の体験の質を落としてしまう」
ということに尽きると思う。
知らず知らずの間に奪われているのが注意力というものだからだ。
スマホは道具だ。
そして最大の特徴は、スマホが意識にどういう影響を及ぼしているかということは、他人から見てもわからないこと。
他人が「うまく使えているかどうか」「脳の集中力が奪われていないかどうか」ということは恐らく、脳波でも測ってみない限りは分からない。
僕自身といえば、1日まったく電子機器を持ち歩かずに過ごしたら、電子機器がいかに意識状態に影響を与えていたかということが、本当によく分かった。
つまりこれは、スマホの影響を過小に見積もりすぎていた例だ。
逆に「旅の時はスマホを置け」という人は、スマホをうまく扱える人に対して、
その影響を課題に見積もりすぎているのかもしれない。
スマホリテラシー
僕のようなリテラシーの低い人間は、たやすく魂を奪われてしまう。
だけどたとえば、赤ん坊の時からスマホを触っているデジタルネイティブは、本当にうまくスマホを扱えるのかもしれない。
だが、たとえばメールというものが普及し始めて既に十数年は経つが、調査によると、仕事でも深刻な「注意力障害」を引き起こしているという話もある。
こればかりは、正確なところ、大規模な調査をおこなってみないと分からない部分だろう。
まとめや雑感
- 「スマホとうまく付き合えている」と思っていても、実は、注意力をそがれているかもしれない
- 他の人がスマホを触るのを見て「けしからん」と思っても、実は、当人はうまく扱えているのかもしれない (自分がうまく扱えないので、他の人もそうだと思いこんでいるのだけかもしれない)
- 道行く人が「首なしゾンビ」になっている光景は恐いけど、自分がスマホを触るのは楽しい
- 「楽しみを削がず、経験の質を下げない」という最低条件を満たす限りにおいて、スマホは素晴らしいツールだと思う
ブログと承認欲求と宇宙と孤独
ブログを書く動機は
「これを、人に伝えたい!」
という強い気持ちだ。
少なくとも、僕の場合は。
何かの体験に感動した時。
何か驚くべき事実を理解したと思った時。
「これは、ひとりだけのものには出来ない」「誰かに伝えなきゃ」と思って、文章にしたためる。
「他の人に伝えたい」という原始的な欲求。初期衝動。
本質はそこから始まっている。
ブロガーのジレンマ
だけどここにジレンマが生じる。
こんなに「人に伝えたい」のに、
「こんなに伝わらない」「こんなにも人に読まれない」という事実に。
そんな事実を突きつけられていると、だんだんと、元々あった本質は変容してしまう。
まるで「こんなに好きなのに振り向いてくれない」という恋愛に似ている。
どんなに伝えようとしても伝わらないし、ただただ循環的に虚しいだけ。
多くの人がブログを始めてやめてしまうのは、この「承認欲求」が満たされないという理由も、小さくないだろう。
ブログには、アクセスカウンタがある。いいね機能もある。
ブログはおおむね、承認欲求を増幅させる悩ましいマシーンなのだ。
だから、
「人に伝えたい」という原始的な衝動から、
「ブログのアクセスが上がらない」とか「人に承認してもらえない」という社会的な悩みへと、僕らの意識はたやすく奪われるのだ。
ブロガーの孤独
僕がブログを書いている間は、恍惚感に溢れている。
だけどいったん書き終わった後、アクセス数やいいねの数なんかを気にし始めたら、それはブログに逆に魂を奪われている証拠だ。
まるでブログ(とかTwitterとかFacebookとかInstagramとか、フォーマットは問わないが)が、価値基準の全てになってしまったような感覚。
魂を捧げるのではなく、逆に奪われてしまっては、人生は楽しくない。
だけど、そもそもどんなにアクセス数を集めたブログの記事だって、1日やそこらが経過すれば、もう誰も見向きもしなくなってしまう。
そういう意味では弱小ブロガーもアルファブロガーも、承認欲求の悩みが生じ得る意味では本質的には変わらない。
(アルファブロガーが強い承認欲求を持っているかは分からないが)
アクセス数の多いブロガーはアルファブロガーを羨むだろうし、
アルファブロガーはYoutuberを羨むかもしれない。
トルストイの小説もやがて忘れられる
これを突き詰めていくと、たとえどんなに人に自分のコンテンツがリーチしようとも、いずれは忘れ去られる運命にあるという事実に行き当たる。
トルストイの小説も、やがて読まれなくなる日が来る。
ビートルスもいずれ忘れられる日が来る。
太陽もいつか燃え尽きる日がくる(ということが科学で証明されている)。
ブログを書いていると、人間の孤独の本質に向き合うかのようだ。
ブログを書くことのポジティブな理解
ブログを書くということを、こういう風に考えることも出来る。
- 自分自身が読者であり、自己満足さえできればいい
- たとえ誰も読者がいなくても、文章力を鍛える訓練になる
- たとえ誰も読者がいなくても、自分自身を楽しませる娯楽になる
- ひとつブログ記事を書けば自分の考えが深まる
- ひとつブログ記事を書けば、リアルでも話のネタにすることが出来る
- 海賊は力なり、継続さえしていれば、将来的にはもっと読者が増えるかもしれない
- アクセス数は重要じゃない、誰かひとりにでも深い影響を与えられれば良い
- 自分が死んだ後に、家族や友人の誰かが、ブログを読み返せますように(読み返さないだろうけど)
無数の「ポジティブな理解」を工夫することも出来るけれど、
大事なのは思考で対抗することじゃなくて、いかに肌でそれを感じ、ひとつの理解が腑に落ちているかとうことだ。
いくら頭で意識的にポジティブなことを考えても、心がそれを実感していなければ、まだ虚しいままだ。
ブログに魂を奪われたら
たまにはスマホもPCも持たずに、1日過ごしてみるのは、どうだろうか。
きっと「魂はブログじゃなくて、自分自身にある」ということを思い出せるはずだ。
アウトプットする習慣って本当に大事? ( ブロガーの悩み )
「インプットの趣味より、アウトプットの趣味を持ちなさい」という。
「日本人は、アウトプットをしなさすぎだ」と。
だけど、アウトプットにはアウトプットのデメリットもある。
それも、かなり大きなデメリットが。
と僕は思う。
アウトプットのことばかり考えてしまう
それは何かというと、たとえ自分がいつどこで、たとえ何をしていても
「この体験を、どうやってアウトプットしよう」
と考えてしまうことだ。
- 映画を観ながら「この感想をどうブログに書こう」とか
- 本を読みながら「学んだことを、どうアウトプットしよう」とか
- 友だちと話しながら「この話をどうやってブログのネタにしよう」とか
そんなことを考えて、今、目の前で起きていることを、うまく体験できないケースによく出会う。
アウトプットの趣味があるからこそ、楽しめる時もあるれど、
アウトプットの趣味があるせいで、楽しめない時もある。
もし仮に、アウトプットなんか習慣がなければ、
もっと純粋にインプットだけを楽しめたのかもしれないのに。
アウトプットの趣味には、確実に「体験を汚してしまう」という性質があるように思う。
(僕はアウトプットの上級者ではないので、まだアウトプットとの付き合い方が下手なのだ)
インプット VS アウトプット
僕が最近強く思うのは、
アウトプットな趣味を楽しむことが出来るのは、あくまで、
インプットのクオリティが保たれてる場合に限られるということだ。
つまり、アウトプットによって、インプットの質が落ちてしまっては、本末転倒だ。
たとえば、腹が減っては戦は出来ない。
お金がなければ物を買うことは出来ない。
息を吸わなければ吐くことは出来ない。
同じように、インプットしなければアウトプットは出来ない。
インプットの質を落としてまでもアウトプットするのは、最も大事な部分、魂を奪われているようなもんだ。
「ファーストアルバムが一番良いアーティスト」は
たとえば音楽のアーティストでも、作品を作ることばかりを考えて、スタジオにこもっていても、きっと良い作品は出来ないだろう。
たとえば一般的に、アーティストの最初の作品というのは、それまでの人生のインプットを全て詰め込むものだから、濃密なものになりやすい。
(例外もたくさんあるだろうが、それは成功したアーティストだ)
だけど、ほとんどのアーティストの作品が、時間が経つほど薄まってしまうのは、まさに「インプットが尽きるから」ではないかと思う。
だから、実はアウトプットよりもインプットのほうがずっと大事なのだ。
潤沢なインプットと、成果物のアウトプット
土地を耕す。
種をまく。
時期を待つ。
そして収穫する。
農作に例えるなら、この前三つがインプットで、最後の一つだけがアウトプットだ。
僕らが実際に「成果物」を収穫するまでは、目に見えない色々なプロセスが働いているのだ。
と僕は思う。
まとめ
良質なインプットをしよう。
良質なアウトプットをしよう。
良質なインプットは、アウトプットの5倍大事にしよう。
スマホはたやすく魂を奪う ( デジタルデトックスやってみた )
人生ではじめて、意識的に携帯を持たずに出かけてみた。
タブレットもノートPCも持たずに出かけた。
持っていったのは財布と鍵ぐらい。
わりと勇気が必要な決断だった。
だけど挑戦だ。
変化 ( いつもの休日と違ったこと )
何度も時間を見ようとするが、スマホがないことに気付く
ふと時間が気になっても、今が何時か分からない。
そして「何時だろう?」「スマホがない」という手順を何度も繰り返すうちに、だんだんと、時間そのものが気にならなくなってきた。
良い意味での学習性無気力とでもいうのだろうか。
あと、街には意外に時計が少ない、ということにも気付いた。
面白いものを見つけて、写真を撮ろうとするが、スマホがないことに気付く
写真に撮れないから、ちゃんと立ち止まって、経験しておかないと、という気持ちになった。
なのでふだんよりじっくりと対象を見たり、音を聞いたりしてみた。
たぶん立ち止まる時間は、スマホを持っている時より2倍ぐらいになった。
実はこの挑戦を始める時、最初は、写真ぐらいは撮れるように
「ずっと機内モードにしておこうか」とか思ったのだけど、
思い切って「まったくスマホを持ち歩かない」という決断をした。
(なぜなら今回の目的は、電子機器がどれぐらい「体験」を濁してしまっているかを確かめたかったから、完全にやってみたかった)
「トマト カロリー」とか調べ物をしようとするが、スマホがないことに気付く
でも、調べ物をしなくても死なないことが分かった。
街行く人の顔がよく見えた
不思議なことに。
たぶん意識の状態が変わったんだと思う。
ふだんは、たとえスマホを直接触っていない時間でも、なんとなく「ポケットにスマホがある」という感覚があって、それに意識が奪われていたんじゃないだろうか。
(たとえば、ある研究によると、人と話す時、テーブルにスマホが置かれているだけで、人の意識は逸れてしまうという)
「ポケットにスマホがある感覚」「いつでもスマホを触れる感覚」がないだけで、かなり意識の状態が変わったように思う。
選択肢が減って、目の前のことに集中できた
「選択肢が多い」ということは、それだけ心が迷いやすいということでもある。
たとえば読書をしていても「この感動をブログに書こうか」「いや、それとも読書を続けようか」という判断をしなくて済むのは大きい。
ただ読書に集中することが出来た。
何の記録も残らない、シェアもしない体験
こんな休日を過ごしても、1枚の写真も残らないし、SNSにもシェア出来ない。
だけど、だからこそ、なんて美しい体験なんだろうと思った。
儚いものほど美しい。
(写真を撮って後から見返す素晴らしさも、十分に知っているけれど)
帰宅後、スマホやPCを触った時に、新鮮さを感じた
惰性で触ってしまうのではなくて、まったく新しいもののように感じた
感想
実は僕は日頃から、電子機器に心を奪われず、目の前のことに集中する訓練をしている。
だけど「スマホを持ち歩かない」挑戦は、さらに35%ぐらい、体験の質を高めてくれたように思う。
(逆に普段、無意識に、それだけ電子機器に意識を奪われているということだ)
スマホを持ち歩かない休日は、
「スマホやブログの中に魂はない」
「本体はこっちだ!」
という感覚を高めてくれた。
週に1度ぐらいは、まったく電子機器を持たずに出かける日、デジタルデトックスの日を作ってみても良いかもしれない。
それでもブログを書いたりする?
電子機器を持ち歩かずに、1日の最後に書くブログというのも、なかなか良いものだ。
問題なのはたぶん、スマホやSNSのことが1日中頭の中にあって、常に現在の体験を汚してしまうことだから。
ブックカフェで相席する方法 ( LUCUA 1100 梅田 蔦屋書店 より )
ブックカフェで本を読んでいる。
すると、右の席で、奇妙なことがおこなわれていた。
ひとりのおじさんが、ひとりの男に、
「ここよろしいですか?」と訪ねて、目の前に座る。
だが男は、何も答えない。
そのままおじさんは、男の向かいの席に座った。
「世の中には、勇気のある人もいるんだな」と思っていた。
そしておじさんはやがて、席を立った。
だがその30分後、また別の女性が
「ここ、よろしいですか?」と、男に話しかけた。
男はまた、なにひとつ答えない。
目の前の人に、視線さえ合わせない。
なんなのだろうこれは?
なぜ右の席の男に、かわるがわる人が訪れて、相席をしていくのだろうか。
しかも、お互いは知り合いでもなく、男は拒絶をするでもなく、ただ沈黙によって相席を受け入れ、そして、人が入れ替わってゆくのだ。
(僕が見る限り、全部で3人分の相席を、右側の男は受け入れた)
これは何か重大なことが、裏側でおこなわれているような気がした。
もしかしたらネットで相席を募集して、
「ブックカフェで相席してみるイベント」でもおこなわれているのかもしれない。
だけど仮にそういうイベントであれば、男が沈黙しているのは奇妙だ。
「あ、田中さんですか?」「あ、はい、へへへ」みたいな、てへっとした挨拶のひとでもあっても良さそうなものだ。
もしかしたら店の公式サービスとして
「相席申込書」のようなものがあるのかもしれない。
いや、それはないだろうけれど。
もしかしたらこの小説が立ち並ぶブックカフェで、まるで小説チックな取引が、秘密裏におこなわれているのかもしれない。
誰もスーツケースは持っていなかったけれど。
なぜ、右側の男だけなんだ。
右側の男だけに相席の相手が訪れ、そして去ってゆくのだろう。
そうして、さらに数時間も経ったころ、
「ここよろしいですか?」という声が、またまた聞こえた。
だがそれは、右側の男に対してではなく、この僕に対してのものだった。
「ここよろしいですか?」の流れがあまりに綺麗すぎて、
僕は思わず「はい、よろしいですよ」と言って、PCやら本やらを広げてあった、テーブルのスペースすら空けた。
そして今相席をしながら、本を読んだり、こうしてブログを書いていたりする。
( ところで人の足に肖像権はあるのだろうか )
このブックカフェでは「相席力」の高い常連さんがいて、
流れるような動作で「居心地の良い席」を確保しているのかもしれない。
ちなみに、まったく嫌な経験ではなかった。
一瞬だけ見知らぬ人と話すというのも、良いものだ。
( 今度来たらあの右の、一番相席されやすそうな席に座ってみようか )
小説を読むということ
小説を読むと、確実に自分の心に影響があるということを知った。
例えばふだん、頭の中でつぶやく思考のスタイルが、少しだけ変わる。
とめどなく頭の中に流れてくるセリフが、やや小説口調になる。
頭の中の言葉が変われば、世界の捉え方も少し変わる。
ふだん、自分が当たり前だと思っている、自分というものの認識にくさびが入れられる。
小説を読んで、少しも自分の思考に影響を受けないということは難しい。
スタンダードな現実と小説の現実
たとえば、こう考えてみる。
たとえば世界の観方というものが10000種類あるとしたら、
僕らが普段見ているのは、その中の1種類に過ぎない。
スタンダードな現実。
社会的な現実。
そのレールの上にいることで、僕らは意思疎通することが出来る。
だけど、あくまでそれはレールにすぎない。
小説は役に立つか立たないか
「小説を読んで何になるの?」
「現実の役に立たないじゃん」
と思うのは、それは1種類の現実だけの話だ。
小説はそもそも「別のタイプの現実」の存在を知らせてくれるわけだから、
僕らのスタンダードな現実の尺度で推し量ることは、まったく出来るはずがない。
世界Aの貨幣は、世界Bでは使えないのだ。
逆もまた然り。
小説を読むという体験を
非常に優れたものだと感じる。
文字情報を認識して、抽象的な理解をするという、人間の脳の高度な働きを目の当たりにする。
たった500円ほどで、ここまで上質の体験をもたらしてくれるものは、他にはなかなかない。
僕らに必要なのは少しのお金と、あとは集中力だけだ。
こんなに小説が素晴らしいものであっても、やがていつか、忘れ去られる作品もあり、太陽も燃え尽きて、この地球も消えて、紙も燃えてしまうのだな。
なんてことを考えたりする。
一生ですべての小説を読むことも出来ないし、仮に出来たとしても、すべてを二冊ずつ読むのは難しいだろう。
小説を読むということは
人間にとって一体なんなのだろう。
その定義がまず、難しい。
小説が僕に訴えかけてくるメッセージは、こうだ。
「定義するな!」