何故せわしなさが嫌いなのか ( たとえば本屋で忙しく本を選ぶ人 )
- 本屋で、忙しく本を選んでいる人を見かける。
- カフェのレジで、忙しそうに注文をする人を見かける。
それも極端に、目立つほどに。
100人に1人ぐらいはこういった、周りよりも特別、落ち着きなく見える人がいるものだ。
それはどんな人?
言葉で表現するのはなかなか難しい。
彼ら、彼女らは別に、本当に急いでいるわけじゃないのだと思う。
本当に急いで本を買わなければいけなかったり、急いでコーヒーを飲まなければいけないわけではないはずなのだ。
ただ単に、すべての動作がせわしなく、落ち着きがないだけだ。
一冊の本を手に取り、舐め回すように、さっと帯を眺めては、棚に戻す。
そして小声で「これは違うわぁ」とつぶやいていたりする。
何かまるで、どこかに隠れた獲物を探しているような様子なのだ。
たとえるならば、バーゲンセールで最も安い商品を狙っているような。
違和感の理由
これは極端な例にしても、僕はこのような「落ち着きのない動作をする人」を見かけるたび「なにかイヤな感じがするなあ」と思っていた。
別に、自分の気分を害されるというわけじゃない。 ただなんとなく、違和感を覚えてしまうのだ。
だけど今まで、それが何故なのかは言葉にできずにいた。
気付いたこと
だが今日思ったことは、こうだ。
何かを忙しく選んでいる人。
彼ら彼女らにとって、その時間は「体験ではない」のだ。
- カフェのレジに並んで注文することは、体験ではない。
- コーヒーを手にとって、実際に飲むことだけが体験だ。
- もしかしたらコーヒーを飲むことさえも体験ではなくて、ただ口にカフェインを運ぶ行為かもしれない。
- 本屋で本を選ぶということは、体験ではない。
- 本を買って、その後に読むことだけが体験だ。
- もしかしたら本を読むことさえも、何かを達成するための手段であって、体験ではないかもしれない。
彼ら、彼女らはただ、結果を大事にしている。
プロセスというものの美しさを忘れてしまっている。
と、僕はそう感じているのかもしれない。
体験は楽しいもの
たとえばの話。
僕らは体験に対しては寛容だ。
- 2時間の映画は、2時間腰掛けてじっくり鑑賞する
- ディズニーランドに行ったら、アトラクションに乗る時間を楽しむ
- 待ち列を並ぶ時間も楽しめるかもしれない
- 遠くに旅行に行くときは、滞在時間を存分に楽しむ
- 計画を立てるのも楽しい体験だ
このように、僕らが体験だと気付いていることに関しては、僕らは急いだりはしない。
体験は楽しいから、
体験と非体験の境界線
だけど僕らの
- 「どこからどこまでが体験か」
- 「どこからどこまでが非体験か」
という境界には、個人によってかなりの違いがあるように思う。
たとえばカフェでレジに並んでいる時間も「カフェで過ごす」という体験だと感じる人もいるし、「コーヒーを注文するための消化時間だ」と感じる人もいる。
僕が極端にせわしない人を見る時に感じる「なんとなく嫌な感じ」は、この「体験だと認識している幅」の違いによるものなんじゃないだろうか。
体験を作るのは我々だ
「他人のことだから放っておけ」って?
それはごもっとも。
だがそもそも体験というのは、その場所にいる全員が作り上げているという部分がある。
実はカフェでも、最も雰囲気に影響をあたえるのは、他でもない僕ら「お客さんたち」だ。
たとえばどんなに素晴らしい環境が整ったカフェであっても、周りが大声で話し合うお客さんばかりでは、ゆったりとした雰囲気は望むべくもない。
たとえばディズニーランドでも、すべての人が「夢のイメージ」を共有しているからこそ、夢が崩されずに保たれている。
なので、お客さんの中のひとりが「体験に気を遣わない人」であれば、それは微弱ながら、他全ての人の体験にも影響を与えるはずなのである。
体験という奥深い世界。
そんなことを考えた、今日だった。
スターバックスのホットドリップコーヒー・グランデ・ホイップ乗せ
僕らは日々、無数の選択をおこなっている
僕はスターバックスのホットドリップコーヒー・グランデ・ホイップ乗せを注文する。
これだけでもう、5つの選択をしたということになる。
- スターバックス (店舗の選択)
- ホット (タイプの選択)
- ドリップコーヒー (種類の選択)
- グランデ (サイズの選択)
- ホイップ乗せ (トッピングの選択)
だが「スターバックスでホットドリップコーヒーのグランデ ホイップ乗せを頼む」という選択をひとつのパッケージにしてしまえば、選択の個数はたったひとつだけで済む。
人間は、こうやって「お気に入り」というものが出来ていくものみたいだ。
パッケージの理由
ところで僕がこの組み合わせを選ぶのは、次の理由による。
- ワンモアコーヒーが可能なドリップコーヒーを選ぶ
- トールではすぐに飲みきってしまうので、グランデを選ぶ
- 午後はカフェインを摂らないようにしているので、デカフェにする
- 午前であれば普通のドリップコーヒーを注文する
- スターバックスのデカフェはやや苦いので、ホイップを追加する
- 味をまろやかにするならミルクでもよいのだが、今時分が糖質制限中なので、より糖質の少ないホイップを選んでいる
- このホイップを最初、一口だけ口に運び、あとは温かいコーヒーに溶かして飲むという手順を取る
スタバファンにとっては当たり前なのだろうけれど、自分好みのカスタマイズを決めていくというのは、なんとも楽しい経験である。
レジでの注文
ちなみに、そろそろこのパッケージが自分のお気に入りに決まってきたのだが、まだ長い名前をレジで言うのは慣れない。
それに、いかにも慣れた早口で注文するのも、なんだか優雅じゃないし。
スタバ初心者から中級者にさしかかったユーザーのように、いつまでもたどたどしく伝えてみたい。
スタバの接客力は世界一
ところで、デカフェのコーヒーは出来上がるまでに5分から10分ほどかかるので、店員さんが席まで持ってきてくれることが多い。
こうやってブログを書いている間にコーヒーが運ばれてきたので、僕はさっとブラウザのタブを閉じた。
そして店員さんは、聞き取りやすい、ちょうど良いボリュームの声で、喋る視線を合わせて目を見ながら話しかけてくれる。
(そしてブログの続きを書く)
スタバの店員さんの接客は、つくづく日本一だなと感じる。
という、とりとめのない話。
そしてクチャラーは気付かない ( 聴覚情報の地位の低さ )
午後。静かなカフェ。 左端の席に、クチャラーが座った。
僕から彼までの距離は2メートルはある。
だが彼の咀嚼音は、僕の左耳に聞こえるぐらいに響き渡っている。
カフェはこんなに静かで素敵なのに。 いや、静かであるからこそ、クチャラーの音はこの場所を支配している。
店内のBGMよりも目立つ。
何の環境音だ。
自分の作業に集中している間は気にならないが、ふと一息つくと、クチャラーの音が耳を刺激する。
僕が最も苦手とするタイプの刺激だ。
(しかし、何故彼はカフェでガムを噛んでいるんだ?)
注意できない
彼に注意する方法は、恐らく存在しないだろう。
今までの経験上、クチャラーといふものは自分の出す音に、完全に無意識である。完全に、だ。
逆説的に、自分の出す音にこれほどまで無意識であるからこそ、今までクチャラーとしての寿命を永らえてきたのだと言える。
もし仮に彼が人生の途中で、自分の咀嚼音を矯正できていたのであれば、今ここで我々の前にクチャラーとして現れることはなかっただろう。
視覚情報の地位の高さ
視覚情報に限っては、我々は非常に気を遣っている。
街中で裸で歩く人は見かけないし、皆それぞれに、ある程度「人が不快にならない格好」を心がけているように思う。
今いるこのカフェだって、皆それぞれに、身ぎれいな格好をしている。
該当のクチャラーだって、フォーマルなスーツを着こなしている。
禁煙と喫煙
たとえばの話。
昔とは違い「空気」は価値であると認識されるようになった。
このために、禁煙エリアと喫煙エリアは明確に分けられるようになった。
喜ばしいことだ。
聴覚情報の地位の低さ
だが聴覚情報は違う。
これはまだ「価値」だとみなされていない。
我々はこんなにも音楽好きな民族だ。
であるに関わらず、日常の音に対しては、すごく鈍感であるように思える。
音空間の価値
- 咀嚼音を立てながら食事をする
- 5秒に1回は咳払いをする
- ノイズの入り混じった声で笑う (自分でもひどい表現だと思うが)
このような事柄は、音空間の価値を著しく落とす侵害行為として、社会的に認識されてほしい。
音空間も「価値」であると理解されるようになってほしい。
そんな世界が来たら素敵なのに。
反省
僕自身も仕事で外付けキーボードを使っていた時、タイピングに夢中になりすぎて、周りに音を撒き散らしていたことがある。
(静音タイプの製品を使っていたので、きっと大丈夫だと思いこんでいた)
本当にごめんなさい。
といま改めて反省した。(ものすごい罪悪感だ)
このように人は「自分の出している音」に対してはごく無自覚なものである。
追記
ところで「周り音が嫌なら、イヤホンをつければ良いじゃないか」という提案は愚問だ。 (誰からも提案されちゃいないけれど)
なぜならイヤホンを付ければ、音空間上において、自分はその場所の体験と切り離されてしまう。 不快な音を遮断できる代わりに、体験という黄金をも手放すことになる。
これは100円を拾って、1万円を捨てるようなものだ。
たとえばカフェで言えば、店が流している環境音楽や、周りの人のコップを置く音や、ちょっとした話し声。
これらは全て、それが度を越したものでない限りは、カフェで過ごすという経験の一部分なのだ。
なんとも贅沢な話ではある。
はてなスタースパム
あるんじゃないかと思っている。
はてなトップページのおすすめ記事に記事に、いつも赤いスターを付けているアカウントがある。
- ジャンルを問わず、色々な記事で同じアカウントを見かける。
- 色付きのスターは、他のスターよりも優先して表示される。
- おすすめ記事は読者も多いので、一部のユーザーは、スターを付けたアカウントも辿るかもしれない。
僕が購読しているひとつのブログに、定期的な間隔で、定期的な数のスターを付けるアカウントがある。
- 必ず二日ごとぐらいに、2個のスターが、同一のアカウントから送られているのだ。
- スターを付ける記事の傾向や間隔に、どうもランダムな雰囲気を感じる。
- これはスパムかどうか判別が難しいところだが、可能性はある。
- スターを送られた著者は嬉しいし、相手のページを見に行って、読者登録をするかもしれない。
僕が見かけたこの二つのアカウントは、共に読者数100以上のブログを運営しているアカウントだった。
なので僕は失礼ながら、はてなスターが、自分のブログの読者数を増やすために使われているのではないかという疑惑を抱いている。
いいねスパム機構
はてなでは「他の人が何にスターを付けているか」というのが分からない。
これがTwitterであれば、
- 見知らぬアカウントから「いいね」がつく
- そのアカウントが3秒に1回ぐらい「いいね」してるスパムであることが分かる
- ブロックする
というアクションが取れる。
だが、はてなブログにはこの安全機構がない。
なんとなく雰囲気で察するしかないのだ。
Twitter では
Twitterでは
- フォローアカウントが公開される
- フォロワーアカウントが公開される
- いいねが公開される
- リツイートが公開される(当たり前だが)
すべてが公開ベースで作られている。
最初は「なんで、いいねも公開されるんだろう」と思っていたが、 これは今思えば、スパムの防止機構のひとつだったのかもしれないな。
カフェ、人のざわめきの中で過ごす。
今日もスターバックス 梅田 MiRise店に来た。
- Wi-fiが完備されている。
- オシャレ感がある。
- 居心地がすごく良い。
- 椅子の座り心地が良い。
- 照明が丁度良い明るさ。
- 本がたくさん並んでいて目が楽しむ。
- 店内がわりと静かである。
- 大声で喋る人はまずいない。
これは、はまる。
考えられる限り最高の環境
他のカフェだと1時間ぐらいで「そろそろ出ようか」という気分になるのだが、ここは一味違う。
開店から閉店まで居られそうな気がする。
長居できるようなカフェはそもそも、値段が高かったり、逆に値段が安くてうるさいことが多い。
世の中の価値と値段のバランスには、ちゃんと理由があるのである。
だがここは大学キャンパスに併設されているというイレギュラーな場所なので、ある意味、コストパフォーマンスが度外視されているような印象を受ける。
長居できる環境が整っており、なおかつ居心地が確保されており、お客さんにも品性がある。
他のスターバックスの店舗と値段も変わらない。
ブログを書いたり勉強をするにはもってこい。
これはすごいことなのだ。
気になる点といえば、エアコンの風が左耳に当たって、そこだけがやや寒い。
僕の右耳と左耳ではいま、3度の温度差は生じているであろう。
注意点
あとは、
- 前途ある学生の知的な会話が繰り広げられたりしている
- ある男子学生は知的に女子学生二人とキャッキャしている
ので、ちょっとしたコンプレックスを感じないように、広い心を持っておくことが肝要である。
(しかし全てが白いベールに覆われたNu茶屋町のchanomyaほどの難易度ではない)
オーダー
ちなみに、一杯きりで居座ったりはしない。
これはカフェで過ごす時の最低限のマナーである。
誰も気にしていない雰囲気だし、ただの自己満足なのだけれど。
今日は「カフェミスト」「ドリップコーヒー」「デカフェのドリップコーヒー」と3杯目を飲み干したところだ。
席
テラス席は一見、とても爽やかそうなのだが、線路や道路が近く、音の環境が優れているとは言い難い。
店内の方がずっと快適に過ごすことが出来る。
本能は人の中で安らぎを感じる
こうやってカフェで過ごしていると、ひとりで部屋で過ごすのとは、かなり違った経験を出来ることが分かる。
たとえ同じようにノートブックを触っていたとしてもだ。
その違いは、カフェの造りや雰囲気もあるだろうけれど、何よりも、周りに人がいるという感覚なのだろう。
人間は本能的に、人に囲まれている環境に安らぎを感じるらしい。
たとえば会社のソファで昼休みを取っている時も、無性に落ち着くのは、このせいなのかもしれない。
薄味の
人の温もりを感じるためには、必ずしも家族や友人と会う必要はないのだ。
- 見知らぬ人たちの雰囲気の中で過ごす。
- いろいろな人が入れ替わり訪れて、会話を交わす。
- たまにちょっとした会話も耳に飛び込んでくる。
こういった経験も、心にやすらぎをもたらしてくれる。
人と話すのは濃すぎる。 ひとりきりでは薄すぎる。
「ピザポテト」では濃すぎる。 何も食べないのは口寂しい。
うすしお味のポテチのような、このぐらいの薄さが、今の僕にはちょうど良い。
余談
こんなことを書いていると、誰かから「友達いないの?」って思われそうだ、という仮想敵と戦っている。
だが最近思うことは、僕らはちょっと、人間関係を過剰に求め過ぎなのではないだろうか。
たとえば、
- 家族がいる
- 恋人がいる
- 親友がいる
- 職場には同僚がいる
という基盤があるとしよう。
これに加えて、休日は必ず知人と話し合わなければいけないとしたら、なんとも贅沢な話である。
人間関係
そんなことを考えている時に、こんな記事を目にして、ちょっと不安になったりはするのだけれど。
男性はなぜ孤独であるのか(トマス・ジョイナー『Lonley at the Top』) - 道徳的動物日記
ところで
今日は近くの席の人が「諦めることを諦めました」というような格好良い感じのフレーズを語っていた。
というような、とりとめもない話。
春も、夏も、秋も、冬も。( カフェクレール )
春も、夏も、秋も、冬も。
彼女ができた6月も、
仕事で落ち込んだ8月も、
偶然旧友に出会った11月も。
いつもの店がきっかけでした 。(カフェ クレール)
ひとこと
春が足りない。
30分を8時間に感じる薬は存在しない
22時に寝る。
深い眠りに落ち、長い長い夢を見る。
夢の世界で、もう1週間ほどの時間が経っただろうか。
これだけ長い夢を見るということは、現実の世界では、もう8時間ほどは眠ったに違いない。 もしかすると、いつもより少し長く眠っていたのかもしれない。
と思いながら目を覚ます。
だが時計を見ると
まだ22時30分だ。
眠り始めてからたった30分しか経っていない。
「何かの間違いじゃないか?」
そう思って、時計を何回も確認する。
午前と午後を間違えていたりしないだろうか。
もしかして短針が2周して次の日になってしまったのでは?
だが日付は変わっていない。
昨夜眠りについた時間を、自分が覚え間違えているんじゃないだろうか。
そう思って、何度も記憶をたどるけれど、やはり昨夜寝た時間は22時だ。
この30分の間に、脳に何が起こったのだろうか。 時間の流れが歪んでいる気がする。
嬉しい方向への歪みではあるけれど。
最近、こういうことがよくある。
8時間を1000年に感じる薬
というのは今のところ存在しないようだ。
8時間を1000年に感じる薬は存在しない、現代の罪と罰 - ネットロアをめぐる冒険
だが人間の脳の中には、確実に時間感覚を司る部位があって、それが10倍にも100倍にも変化し得るというのは、実感として分かる気がする。
たとえば初代バイオハザードでの冒険は、たった一夜の物語だったが、主人公たちにはそれが何ヶ月にも感じられたことだろう。
名探偵コナンの工藤新一も、失踪してからまだ半年も経過していない。
ちびまる子ちゃんはいつまでも小学生だ。
この現象が起きる原因
詳しいことは分からないが、 最近、22時ぐらいには寝るようになったのが大きな理由じゃないかと思っている。
22時から2時は、人間の眠りが最も深くなる時間帯だという。
本当にこの時間帯に魔法が隠されているのかもしれない。