ライフハック | 決断を減らす決断をする
最近なるべく、決断を減らすような決断をするように心がけている。
- 部屋のゴミを片付けるか片付けないか迷ったら、片付ける。
- 脱いだ靴をそろえるか揃えないか迷ったら、揃える。
- 今日の分の筋トレをするかしないか迷ったら、する。
このメソッドの良いところは、もう次は迷わなくて良くなるということだ。
迷う価値なんてあるの?
迷うということは「どちらでも良い」ということだと、僕は理解している。
なぜならもし、Aの価値がBの価値よりも圧倒的に大きければ、僕らは自動的にAを選んでいるはずじゃないだろうか。
つまり迷うということは、選択肢同士の価値が拮抗していることを示す証拠だ。
つまり、どちらを選んでも大差のない結果になることが多いのではないか。
身を軽く
どうせどちらでも良い選択肢ならば、決断を減らす方の決断をしよう、というのがこのメソッドのコンセプトだ。
- 部屋のゴミを片付けなければ、ゴミを見るたびに、片付けるかどうかを迷うことになる。
- 脱いだ靴を揃えなければ、靴を見るたびに、揃えるかどうか迷うことになる。
- 今日の分の筋トレをしなければ、また何度も、筋トレをするかどうか迷うことになる。
だが「決断を減らす決断」をしてしまえば、もうその決断をする必要はない。
AもBも価値は変わらないのに、片方を選ぶことで、決断のコストをぐっと下げることが出来る。
人間の決断コストは馬鹿にならない。
迷っている時間が一番もったいない。
だからこそ、どうでも良いことなら、決断を減らすことを最優先に考える。
注意
この基準で決断してしまうとヤバイ事柄もある。
たとえば次のように。
- 食べるか食べないか迷ったら、食べる。(体重が増える)
- 買うか買わないかで迷ったら、買ってしまう。(赤字が増える)
- 重要な事柄でも「考えるのが楽になる方」を選んでしまう。(後悔が増える)
まとめ
- 日常の些細な事柄では「決断を減らす決断」をしてみよう。
- 選択肢自体よりも、決断コストを減らすことを重視してみよう。
- このメソッドが逆効果になる場合もあるので、用法用量は守ろう。
梅田の穴場カフェ 関西大学キャンパスのスターバックスに行ってきた
あれに見えるは
チェーン店なのに隠れ家的な
関西大学キャンバスのスターバックスだ
この店はGoogle Mapに出てこない
「スターバックス」と検索してもヒットしないのが特徴。
その理由はおそらく、基本的には学生向けなので、あまり人を呼ぶ必要がないからだろう。
人が来すぎても雰囲気が壊れるし、困るのかもしれない。
本がたくさん並んでいる
TSUTAYAのブックカフェだ。
隠れ家的とは言っても、普段のカフェタイムはさすがに満席のこの店。
今日来たのは18時過ぎ。この時間帯になると、日曜でもチラホラと席が空いてくるようだ。
はじめて座ることが出来た。
カフェインレスのドリップコーヒー + ホイップ
定番。
本をてきとうに選んでみる
1分だけ読んだ。
スタバで Mac Book を開く奴
定番すぎる気もするが、ブログを書いたり、プログラミングをしたりして、ドヤ感を出していく。
YouTubeを見たり漫画を読むよりは、さすがに高級感があるだろう。
(誰もが画面は見ていないだろうが)
感想
関西大学キャンパス併設というだけあって、学生さんが多い。
- 「授業の面白さと理解のしやすさは比例する」などの事柄を楽しそうに語る、頭の良さそうな学生。
- 男の先輩に猫なで声で勉強を教えてもらう女性の学生。
- イヤホン&マイクを付けて、オンラインで中国語を喋りながら勉強を始める。
- それにむすっとして、何度も席を立ち、ついには立ち去ってしまった無言の学生。
人間観察という、趣味の悪い趣味を楽しんでしまった日であった。
環境
なぜかスタバのWi-fiが2階まで届いていなかった。
どうした。頑張れ。
居心地
iPhoneの電池さえ切れなければ無限に居られそうな空間だった。
ちなみに充電用の電源は完備されていた。
また、人の空き始める午後に来よう。
北新地の一笑でシャトーブリアンステーキを食べてきた
会社の懇親会にて
これだ。
コース7000円という、滅多にお目にかからない高級感だ。
(懇親会の中でも、プチ記念パーティー的な日だったのだ)
感想
非常に美味かった。
高級肉の良さは、味のクオリティだけではない。
奥深さ。つまり情報量だ。
シャトーブリアンのすばらしさを感じた。 (ちなみに「シャトー」や「ブリアン」が一体何のことなのかはよく理解していない)
メニュー
- 極上肉(シャトーブリアンステーキを含む)
- 上質な肉
- ホルモン
の順番で提供された。
「焼肉は、上質な肉を最初に食べるに限る」と思っている僕にとっては、この順番は納得だ。
焼肉は後半になるほど、舌が慣れてきて肉の旨味も感じられなくなってくる。 だから最高級肉を一番最初に口に運ぶのは、とても正しい。
さすが高級店だけあって、出す順番も心得ている。
準備体制
楽しみにしていた高級肉。
僕はこの肉たちをどんな風に楽しんでやろうかと想像を膨らませていた。
- 皿に盛られた高級肉の鮮やかさで、目を楽しませる。
- 一番食べたい1枚を焼き、最高に自分好みの焼き上がりに調理する。
- もういちど焼き上がりを目に焼き付けて、肉質のクオリティを感じてみる。
- まずは塩だけで、肉本来の旨味を味わう。
- 次にタレをつけたりして、色々なバリエーションでの体験をコンプリートする。
- その後も、自分の満腹感や舌のコンディションと相談しながら、一番美味しい食べ方を戦略的に選択している。
僕が食事を楽しむ時は、上記のように、細心の注意を払ってタイミングというものを考えている。
何故なら、一番美味い食べ方を選びたいし、一番上質な体験を選びたいからだ。
この懇親会は、そのために絶好の機会であった。
(プライベートでも7000円のディナーはまず食べない)
だがしかし
この時に同席したメンバーは、このコース7000円の焼肉を、 まるで3000円の食べ放題であるのようにスピーディーに食べる猛者たちだった。
- 「どんどん焼いてー!」
- 「どんどん食べてねー!」
体育会系のノリである。
僕は必死の抵抗を見せた。
- 「自分の分は自分で焼きますからね!」
- 「自分の分は自分で焼きますよー!」
- 「自分の分は自分で焼きたいなあー!」
と3回ほど絶叫したが、無駄だった。
まったく耳に届いていない。シャトーブリアンの威力おそるべし。
なので仕方なく、このスピード感の中で最大にシャトーブリアンを味わうことにした。
ちなみに
同席したメンバーの一人は、最初に提供されたのがシャトーブリアンステーキだとは気づかずに、食べるチャンスを逃してしまったらしい。
(だからあれほどスピーディーに焼いていたのだと納得した)
店名の由来
「一笑」という名前が気になった。
- 「1回だけ笑えば良い」
- 「何度も大笑いしなくて良い」
- 「穏やかに慎ましい時間を過ごしてほしい」
そんなニュアンスだろうか。 そうだとしたら、いかにも高級店らしいネーミングのようにも感じられる。
あまりにも唐突に風邪を引いた
あまりにも唐突に風邪を引いた。はじめての経験だった。
昨日、外に出ていると、急激に体調が悪くなった。
体がフラフラとして、歩くことさえ難しくなってきた。
30分前まではごく普通の状態だったはずなのに。
今朝は普段通り筋トレだってやっていたはずだ。
「今までにない現象だ」「なんだこれは」と驚きを感じた。
だが、そんな状態なので、街ぶらは諦めて帰宅することにした。
かろうじて家に帰ると、体が熱かった。
そして午後5時から、次の朝の9時まで、16時間ほどは眠った。
今までに起きなかった現象が突如として起こる。
人体とは不思議なものだ。
(そう、老いや死を免れる体はひとつも存在しない。そうだろう? ジェームス)
風邪の予兆
風邪というものには普段、予兆があるものである。
- 集中力が落ちる
- 体の節々が痛む
- 寒気を感じる
- 睡眠時間が長めになる
その時はこれを「ちょっとした不調」と考えるものの、風邪をひいたあとで「あれは体への警告だったのだ」と気付くのが釣りだ。
だが、今回はその予兆すらもなかった。 正確に言うと、予兆のレベルがものすごく低かった。
今思えば、ほんの少し集中力が落ちたり、ほんの少し関節が痛かったりという症状があったかなというぐらいだ。
無敵感のジンクス
今までの人生を振り返ってみると、
- 体調管理を万全を期している
- 体調がすこぶる良いと感じている
- 体調管理に新しく自信を付け始めている
そんな時こそ、意外に体調を崩すパターンが多いように思う。
そのたび反省するのだが、体調管理においてはやはり「無敵感」は宜しくないのかもしれない。
体調がすこぶる良いという自信が、ちょっとしたエネルギーの消費にも鈍感にさせ、コンディションを崩す土台を作っているのだろうか。 そこに寒暖差の激しさや、忙しさが加わると、なかなか危ない。
コンディション管理に定評あり?
こういう時にまず思うことは、自分が体調を崩したなんて、認めたくないということだ。
- 日頃からコンディション管理には徹頭徹尾こだわっている。
- 栄養面も睡眠面も心理面も厳重な注意を払ってケアしている。
- 人にも「そのおかげで、体調がすこぶる良い」と伝えている。
そんな自分がまさか、このタイミングで、体調を崩すなんて。
「体調管理には自信があったんじゃないのか」「でも、全然出来ていないじゃないか」なんてことを考えて一瞬、恥ずかしさを感じたりもする。
休日のロスト
そして、風邪によって本来あったはずの時間も失われてしまう。
- 本当ならば今頃、陽の当たるカフェでブログを書いていたはずなのに。
- 本当ならば最高のコンディションで、仕事の勉強をしていたはずなのに。
なんてことを考える。
だけど、自分が体調を崩した時に大事なのは、まずそれを認めるということだ。
「あれが出来たのに」「これが出来たのに」という夢に溺れれば、風邪をひくことのはもっと辛い経験になる。
だが瞑想を続けているおかげで、現状を受け入れることはずいぶんと上手になった。
体質は変化する
僕は日頃から、人よりもコンディション管理に気を遣っている。
そして5年前よりも、10年前よりも体調が良くなったと感じている。
だけどどうあがいても、年齢によって体質というものは変化する。 我々はいずれは加齢や、それによる容姿の変化も受け入れていかなければいけないのだ。
(変化を受け入れられない人生より、受け入れられる人生のほうがずっと楽だろう)
まとめ
- 今までにないスピーディーな風邪のひきかたをして驚いた。
- 風邪を引いたときに大事なのは、まずはそれを受け入れること。
- コンディション管理によって体調は良くなるが、年齢によって体質の傾向は変化する。
追記
- あんなに具合が悪かったのに、ほぼ1日で復活できたので、やっぱり体調管理は大事。日々の成果は回復スピードに現れる。
四人でボードゲームを遊ぶ難しさについて (「 決戦! ドカポン王国 Ⅳ」 )
お題「一番好きなボードゲーム」 を挙げるとしたら、このタイトル一択だ。
果たしてテレビゲームはボードゲームと言えるのだろうか。
言える。
何故ならボードが物理上に存在するか、電子上に存在するかは問題ではない。
僕らに必要なのは駆け引きだけだ。
パッケージ
ところでこのゲーム、パッケージは少しポリゴン風に描かれているが、ゲーム自体は全くポリゴンではない。
あとタイトルにⅣと付いているが、まったく四作品目ではなくて初代作品だ、ということを知ったのは大人になってからだった。
何故このタイトルなのか。
「4人で遊べること」を表現してⅣになったのだろうか。
いや「既に定番のシリーズであるかのような錯覚を抱かせる」という、当時にしては高度なマーケティングだったのかもしれない。
4人でボードゲームを遊ぶ難しさ
多くの諸君が経験していることと思うが、ボードゲームを4人で遊ぶというのは至難の業が必要とされる。
まず遊ぶ年数の設定が難しい。
周回年数を99年に設定したりしても、絶対に1日では遊びきれない。
ドカポン王国然り。桃太郎電鉄然り。
もし99年を遊ぶとしたら丸1週間はかかることだろう。
ボードゲームにはセーブ機能がある。だから日を変えて遊び直せば良いのだが、それも不可能だ。
子どもたちは「また同じメンバーで集まって遊ぼう」と固く誓いはするものの、その約束が果たされることはついにない。
たとえまた、奇跡的に全く同じメンバーが集まる日がやって来たとしても、その頃には既に時が過ぎ、前回の記憶は薄れ、結局はまた新しいゲームを始める方が良いという結論に落ち着くこととなる。
なので、これに教訓を得た子どもたちは、「今日遊べる時間」に対して周回年数を絶妙に調整する技を身につけるのだが、それはそれで、毎回序盤のゲームだけを楽しむこととなる。
より奥深い戦略性があるはずの、ゲーム後半までたどり着くこともまずない。
むすっとする奴
ボードゲームの難しさとは、人の気持ちだ。プライスレスだ。
この手のボードゲームはだいたい後半になればなるほど、成功しているプレイヤーと、失敗しているプレイヤーの差が開く作りになっている。
しかも、大昔のスーパーファミコンのゲームなのだから、その特徴は顕著だ。
その結果何が起こるか。
負けているプレイヤーは途中から「むすっ」としてしまうことになる。
「何かあいつ、全然楽しくなさそうだな」と思ったら、それはゲームで負けが込んで、まったくゲームを楽しめていないせいだ。
- 勝っているプレイヤーはずっと遊び続けたい
- 負けているプレイヤーは早く終わりたい
これがボードゲームの難しさである。
勝者と敗者
ゲームというものは、勝者だけが楽しんでも、その勝者さえ、長く楽しむことは出来ないのだ。
なぜならボードゲームの楽しさは、全てのプレイヤーが熱くなれるかどうかにかかっているからだ。
本当なら僅差で白熱するゲームが一番楽しいのだろうけれど、意図的にそのゲーム展開を作り出すことは出来ない。 誰かがわざと負けてでもやらない限りはね。
そう思うと「上級者が負けてやる」とうのは「ゲームを熱を失わせないための優れた戦略」なのかもしれない、とふと思った。
盆をひっくり返すゲーム制作者
この手のゲームには周回が終わった最後に「王様からのボーナス」的なイベントがあるのが定番だ。
このドカポン王国にも、確か最後にそういったイベントがあったはず。
だが同シリーズのプレイステーション版の作品では、 なぜか「一番死んだプレイヤーに大きな報酬が入る」というイベントがあって、それが莫大な金額に設定されていた。
たとえば2~3時間かけて、1位のプレイヤーが貯めた金額が1000Gだとしたら、一番死んだプレイヤーへのボーナスは50000G、というような壊れた設定だった。 そのせいで、それまで4位だったプレイヤーが、一気に一位に踊り出て優勝してしまうという珍事が起きた。
誰がどう考えても、天地が逆転しても、明らかにおかしいゲームバランス。 これをクイズ番組で言うならば「最後の問題だけは100万点だけど、回答者にはそれが知らされていなかった」状態。
ものすごく興ざめして、二度と遊ばなかった。
このようにゲームにおいては「盆をひっくり返す」ような仕様はご法度である。 だが今思えばこれは「むすっとしてしまう奴対策」の仕様だったのかもしれない。
ドカポン王国の面白さ
ところでこのゲームの面白さは
- 敵 / 経験値 / お金 / 武器 / アイテム が存在するRPGのベーシックさ
- レベルが上がるごとに各パラメータにボーナスを割り振ることが出来る
- モンスターから村を救出すると、村から定期収入が入るようになる
- 村に寄付をして、収入をアップグレードすることも出来る
- プレイヤー同士が戦うことが可能で、勝ったプレイヤーは相手の持ち物を没収することが出来る
- 4つのボタンで繰り広げられる絶妙な心の読み合い
- 負けたプレイヤーは何周か全くゲームに参加出来なくなる
このように
が絶妙なバランスで組み合わされているところが、奇跡的に面白いのだ。
この作品、末永くシリーズが出続けているようだが、一番面白いのは、なんといっても荒削りな初代のⅣだ。
TVCM
当時、コマーシャルでは「友情破壊ゲーム」と銘打って宣伝されていた。
これが本当に、悔しすぎてないてしまった子供もいるぐらいの衝撃的なゲームだったのだ。
ゲームに性格は表れる
これは僕の持論だが、ゲームのやり方にはものすごく性格が表れる。
- 敵と戦って着実に経験値を貯めていくやつ。
- 序盤から赤い宝箱を開けて、ギャンブルに賭けようとする奴。
- 心理戦で相手のパターンを分析し、確実に裏をかいてくる奴。 (大人になって出世しただろうな)
- プレイヤー同士の戦いになったら絶対に「逃げるコマンド」を選ぶやつ。
今できるならば、子供の頃の過去のプレイを見返して、それぞれどんな大人になったか振り返ってみたいものだ。
どんなパラメータを割り振って、どんな風に成長しているのだろう。
しみじみ。
ブログに書きたいことは無限にある
無限に出てくる。 いちどブログを書くということが習慣化してしまうと、大小様々、テーマといふものは無限に現れいづるようになる。
たとえば朝出勤の途中、少なくとも10個のテーマが頭をよぎる。 あるものは意識不可能なほどに一瞬で消滅し、あるものにはより大きい形があり、明確にテーマとしてワタシに認識される。
そして、いざ何かテーマを思いついたら「これは絶対に書き留めておかなければいけないものだ」という衝動に駆られる。 釣りで言えば「大きな魚が竿に食いついている!」といった感覚だ。 (ちなみに釣りをしたことは1回しかない)
なので僕の場合、何かテーマを思いついたら、すぐにスマホのメモ用アプリに書き留めるようにしている。
それをメモしなかったらどうなるか (男はソレを我慢できない)
もし、1個のテーマをメモをせずに歩き続けた場合。 それのテーマを頭の中で覚えておくことになる。
だが次には、2個目のテーマが頭の中に出現する。 そして、合計2個のテーマを忘れないように、頭で復唱しながら歩くことになる。
こうしてどんどん脳のメモリ負荷は増大していく。 3個以上になるともうダメだ。既に最初の1個目は忘れかけている。
この脳の負荷を下げるためにも、僕には思いついたテーマをメモするという崇高な義務がある。
だが歩きスマホは危ない。だから、足が止まったタイミングでメモをするようにしている。 だから、早く次の信号待ちエリアに差し掛からないかと思う。
運悪く、ずっと青信号が続いたりしたらヤバイ。 大事なテーマが脳からこぼれ落ちてしまいそうだ。
だから僕は赤信号を求める。
速度重要
メモというものは、サッと取れるということが本当に重要だ。 文字入力ごとの0.05秒ぐらいの遅延が、メモの良さを台無しにしてしまう。
朝の出勤時、忙しい時に重要なメモを取るのだから、これは必須要件だ。
たとえば昔の西部で、ガンマンが0.1秒、銃を引き抜くのが遅れたらどうなるか。
死あるのみである。
だが最近、iPhoneのOSアップデートでiPhone6sが重くなった。特に文字入力が遅くなった気がする。 これは僕のスマホライフにとって命取りだ。
スピードなきものには死あるのみ。
ガンマンの銃を劣化させるiOSのアップデート。 俺たちの命を何だと考えているのか。
新しい銃がほしい。 快適にメモをとる、ただそれだけのためだけに、新しい銃 ( iPhone7S or 8 ) の購入さえも考えたほどだ。
だが文字入力に特に支障を期待しているのが、主にNoteアプリであることに気付いたため、今さらだがEvernoteを入れてみることにした。 こいつは今のところ快適に動作している。
1/10
閑話休題。
だが、こうやって必死にメモしたもののうち、実際にブログに書くことが出来る記事はごくわずかだ。
仮に1日に30個のテーマが頭をよぎったとして、せいぜい記事にできるのは2個か3個。 ほとんどのものはメモアプリの下の方に埋もれてゆく。
なぜなら時間が経過して、重要だったことも重要ではなくなる。 ブログを書くモチベーションも、毎日ものすごく高いわけではない。
より重要なことを書こうとすれば、より重要でないことは書かないという結果になる。
だが、それでいいのだ。
ブログを美味しくいただきます
ブログを書くと言うことは僕にとって、美味しいものを食べるのと同じような感覚だ。
全世界の店の、全世界のメニューの中で、食べられる料理はごくわずかだ。 それと同じように、ブログのテーマは材料であり、そのうちで料理して食べられるものはごく少数である。
ブログを書くということは、無限の材料と、材料の選択肢の中で、今日の料理を美味しく食べるということである。
以上。
新書のデザインが統一されている理由
ふと思った。
これって意外と優れた販売戦略なのかもしれない。
- デザイン料がかからない
- 新書シリーズのブランディングが出来る
- 良いコンテンツを売り続けるほど、ブランド力が高まる
- 逆もまた然り
- 読者とのマッチングがしやすい
- 「この新書シリーズ、良かった」って人は、次からは、著者の違いに関わらず本を買うようになる
- 「この新書シリーズ、いまいちだった」って人は、次からは、本の内容に関わらず買わなくなる