有給を売却したい
法律的にダメっぽいのは分かっている。 社会全体的にも悪いんじゃないか、ということは考えた。
だからこれはただの、個人的な気持ちだ。
僕が有給を取らない理由
いまのところ、僕はあまりあまり有給を取る機会がない。 その一番の動機は、生活で一定のペースを保ちたいということだ。
人間というのは、一定の習慣を保ったほうが、バイオリズムを保ちやすいものだと思う。
- 夜は決まった時間に寝て、朝は決まった時間に起きる。
- 毎日同じぐらいのカロリーで、同じぐらいのタイミングで、栄養のある食事をとる。
- 週に5日働いて、2日は休む。
これは一見退屈に思えるかもしれないが、実はとても合理的なやり方だ。
バイオリズム
たとえば、夜勤と昼勤がアンバランスに入れ替わる仕事は、特にしんどいと聞く。 これはバイオリズム的に、人間が一定のリズムを保てないからだろう。
それと同じように「平日」と「休日」のバランスも、一定であったほうが、人間の生活には好ましいと、僕は考える。
なので僕は、3連休は好きじゃない。 ゴールデンウィークは憂鬱だ。 休日が長ければ長いほど、休日明けにペースを取り戻すのが大変だ。
週に5:2のバランスが崩れることで、自分でそれをカバーしなければいけない。
余る有給
なので有給はぜひとも、買い取ってもらいたい。
会社に売却するでも、国に売却するでも、同僚に売却するでもいい。 街角の金券ショップで買い取ってくれないだろうか。1割引でも2割引でも良い。
世の中の多くの「価値」は換金できる。 Tポイントだって現金化出来る。 だが有給は換金できない。
有給だって「価値」のはずだろう。
ジレンマ
ちなみに当たり前だが、僕らには「有給を使わない自由」もある。(たぶん) だからその自由を行使することだって出来る。
だけど有給が売約できない以上、それは実質的に、有給分の価値をみずから捨てるという個人的な決断が必要だ。
- 個人の生活においては、有給を使わない方が得をする
- 価値の面においては、有給を使った方が得をする
ジレンマである。
ものすごく悔しくはないけれど、 「なんとなく、もったいないな」という感覚はある。
まとめ
有給を買い取ってほしい。
「してみるテスト」って?
僕は今日、この表現をしようとして、差し控えた。
だがネットでよく、こういう表現をする。
その心理とは
- 周りからツッコまれたくない。
- これは自分の意見ではなくて、あくまでも「自分の意見的っぽい、何か別のもの」だ。
- 「テスト」に対して「本気のツッコミ」が来た場合、むしろ痛いのはツッコミをする側だ。(こっちは本気じゃないのに、なに本気になってんの?)
- リスクを負わずに、メリットを得たい。(自分の意見ではないということにして、自分の意見を言いたい)
こういうものではないだろうか。
表現のテイストは軽いが、実はものすごく社会的評価を気にした言い回しだなと思う。 なんとも奥ゆかしい表現ではないか。
このケースに限らず、ひとつの「言い回し」の中には、必ず心理的な動機が隠れていると思う。
たった7文字の中にニュアンスが詰め込まれる。 言葉というのはそういうものだ。
個人的に控えたい理由
だが僕がこの表現をしたくないのは、 「自分の意見」を「自分の意見ではないこと」にする回数が増えれば増えるほど、心と言葉が遊離していくような気がするからだ。
僕個人にとって言葉や文章は、あくまでも現実を、より精彩に理解したり、伝えたり、残したりするためのものだ。 その精度は高ければ高いほど良いし、解像度が高ければ高いほど良い。
たとえるなら、言葉が心の中に、キチンと収まった感じが好きだ。 逆に「思ってもいないことを喋っているな」とか「考えてもいないことを書いているな」という感覚はあまり好きじゃない。何か道を外れているなと思う。
僕も周りから「痛い奴」と思われたくはない。 だけどそれよりも、言葉と現実がズレないことの方がはるかに重要だと思っている。
表現には良いも悪いもない
こんなことを書くと、
- 「この表現は良い」
- 「この表現は悪い」
- 「こんな表現をする人間は素晴らしい」
- 「こんな表現をする人間はけしからん」
という話になってしまいがちだが、こう考えるのは罠だと思う。 (評価軸を増やすほど生きづらくなる)
なぜなら、ひとつの表現に良し悪しがあるわけではないからだ。 表現の裏には必ずニーズがあって、それが満たされているか、満たされていないかの違いがあるだけだ。
まとめ
は思いつかなかった。以上。
エシレバター 有塩 の感想 ( よつばの発酵バターっぽい )
買ってみた。
ずっと気になっていた。
ちなみにお値段は50gで500円ぐらい。 100グラムあたり1000円と、大変お安くなっている。
どこから開ける?
裏に開け口があるんじゃなくて、シールを剥がすと表が開け口になっている。
前にフランスのチーズを買った時も、確か表が開け口だったような。 日本では「開け口は裏側にある」というイメージがあるけど、ヨーロッパではこれがスタンダードなんだろうか。
6つに切り分けて食べてみる。
感想
しかし。。。まったく期待はずれだ。。
「よつ葉の発酵バター」とほとんど同じじゃん! これなら高い値段(いや、大変お安い)を出して、エシレのバターを買う必要は全くない気がした。
値段
それもそのはずだ。 関税やらなにやらで、外国のバターは日本ではめちゃくちゃ高くなっているらしい。
このエシレのバターでいうと、グラム1000円どころか、グラム100円ぐらいで買えるそうな。 そう、元からクオリティに期待してはいけなかったのだ。
その後の感想
しかし。 日を変えて二度目に食べてみたら、なかなか味わいがあって美味い気がした。
食品は2度、3度食べてみないと分からないものだ。
有塩だが塩味はきつくない。まろやかだ。コーヒーに入れても合う。 値段さえ度外視すれば、また食べたいし、食べ続けたい味だと思った。
しかし、さすがに10倍の値段になっているものを書い続ける選択は取らないだろう。たぶん。 何か日本産で良いバターを探してみようと思っている。
「会ったこともない人を批判するのはおかしい」という主張について
「会ったこともない人を批判するのはおかしい」という意見を、ネット上でたまに見かける。
たとえばTwitterでの論争で。 批判を受けた側が、この主張を批判者に投げかけていたりする。
だがしかし。批判を投げかけた側のマナーがどうであったかは、ひとまずさておくとしても。 「会ったこともない人に評価を下す」という行為自体は、僕たちが文化的に、当たり前のように日々おこなっていることではないだろうか。
人間というものはそもそも、会ったこともない人にリアリティを感じて、それを評価する生き物のはずだ。
たとえば、
- 芸能人
- 政治家
- 歴史上の人物
- 噂に聞いた誰か
など。
会ったこともないイチローを尊敬し、会ったこともない夏目漱石の小説を読み、会ったこともない、存在もしないキャラクターを好きになる。(ミッキーマウスとか、アンパンマンとか、綾波レイとか、空条承太郎とか)
僕たちは抽象度の高い脳を持っているので、対象を評価するに当たって「会ったことがあるか、どうか」を普段、全く重要にはしていない。
「会ったこともない人を批判するな」と主張する当人も、おそらく今まで無数に、「会ったこともない人」に評価を下してきたことだろう。
これをやめるということは、ある意味、僕たちが脳の抽象度を切り捨てるということだ。
もし問題があるとすれば、それは具体的な批判の方法だろう。 その人に「会ったことがあるか、ないか」ではないはずだ。
ブログのテーマには旬がある 〜サンマ理論〜
ブログを書くということには、思ったよりも時間がかかることに気付いた。
たとえば15分ぐらいかかるかと思ったテーマがあるとする。 だけど、その記事を書き上げた時には、気がつけば1時間は過ぎていたりする。
キーボードで文字を打っている間は、恍惚の状態にある。 だから時間が早く過ぎるのだと思う。
ブログを書いていると、最初は書こうと思っていなかった表現が、次々に浮かんでくる。(ブログを書くというのは、そういうことだ)
(ちなみに「恍惚」は「無我夢中」の半分ぐらいのエネルギーがあるイメージで、僕は「無我夢中」の状態よりも「恍惚」の方が好きだ。閑話休題)
スピード無視
記事を書くスピードが速ければ速いほど良い。 なんてことは、僕は考えない。
なぜなら僕の場合、ブログを書くという時間を楽しむためにブログを書いているだけなので、スピードはまったく関係ないのだ。 (面白いゲームを15分だけ遊ぶのと、1時間遊ぶのとではどちらが良い?)
ブログの記事を量産すればするほど、幸せになれるという道理もないだろう。 もしそうならば、ブログの記事数 世界ナンバーワンの人が、最も幸福な人類であるはずだ。
ホットなテーマ
だけれど、しかし。 ブログに書きたいことは無限にある。
ひとつの記事を書き終わり、恍惚の時間が終わる。 そしてPCの時計表示を見る。 その時「もうこんなに時間が過ぎてしまったのか」「他にも書きたい記事があるのに」と思わないでもない。
僕は決して、大量の記事を書きたいとは思わない。 けれど、今自分が考えていることを、ホットなままで、ブログに打ち込みたいとは思う。
なぜなら、時間が経ってしまうと、特定のテーマについて書くモチベーションは落ちてしまう。
たとえば、
- 今日、テーマAについて書く
- 明日、テーマAについて書く
- 来週、テーマAについて書く
という違いによって、ブログの内容は、かなり違ったものになるはずだ。
たとえテーマは同じでも、それを書く時期によって、テイストや、結論さえも恐らく違ってくる。 なぜなら人が考えていることや、人の状態というものは、日々刻々と変わってゆくものだからだ。
今日、書くチャンスを逃したら、明日はもう、同じようには書けないかもしれない。 ブログに書くテーマにも「一番良い時期」「旬」というものがあるのだ。
ちなみにこの「テーマ」や「旬」というのは、ニュースで流れてくるトピックとかではなくて、個人的に興味のあること全般の話だ。
サンマは美味いうちに喰え
( http://forest17.com/ / 手元にサンマの写真がなかったので無料素材より )
桜は咲いているうちに見よ
( 京都 哲学の道 / 個人的写真 )
命短し
- サンマが美味い時期は初秋。
- 桜の季節は2週間。
- セミが生きるのは7日間。(伝説によると)
万物はうつろうものである。
ブログを書くは、季節で変わるそれらを楽しむが如く。
ブログは Mac Book Air のキーボードを叩くために存在する
ブログを書くのが好きだ。
しかし僕が本当に好きなのは、MacBookAirでキーボードを叩くことである。
あくまでもブログというものは、MacBookAirのキーボードを叩くための触媒に過ぎず、真の目的はこの私の10本の指たちが、脳から信号によって軽快に自動運転をおこない、そのタイプ音がさらに聴覚を刺激して、フィードバックを受けた脳がまた発信信号を変えるその循環的なプロセスなのだ。
僕にとって重要なのは、結果どんな場所にたどり着いたかということではない。 もしこれが山登りだとすれば、山頂にたどり着くまでの道順、途中で見えた景色、靴音を立てている時の恍惚感こそ僕の記憶に残る。
以上。