同じ赤色の自転車が並んでいた道
同じような形。同じような向きで。
(自転車感度が高い人にとっては、まったく違う自転車に見えるだろう)
この前を通りかかった時、右の自転車は、いままさにそこに留められたばかりだった。 そして、左の片方の自転車が、風で倒れるのを僕は見た。
それを右の自転車の持ち主が、抱き起こしていた。 「なんて良い人なんだ」と僕は思った。
だけど彼女が右の自転車の持ち主だというのは、ただの見間違えで、実は左の自転車の持ち主が、自分の自転車を起こしただけだったのかもしれない。 それならば、彼女はすごく良い人ではなくて、普通の人ということになる。
事実は分からない。
このようなことを考えたのは、ほんの5秒間ほどのことである。 人間の心は、ほんの数秒の間にも、こうしてストーリーを組み立てるものだ。
そんな朝の、一瞬の話の話。
はてなブログの画像容量は月171円で10倍に出来る (フォトライフプラス)
結論
経緯
今月のアップロード容量がヤバイ
1ヶ月だけ「はてなブログPro」に申し込もうとする
だがその途中、サービス別に料金が細かく分かれていることに気付く。 なるほど、はてなブログProってセット価格なんだ。
単品購入で!
アップロード容量をグレードアップするだけなら、月1008円じゃなく、月171円で済みそう。
申し込み
申込みには「はてなポイント」を購入しなくちゃいけなくて、それにはクレジットカード決済が必要で。
クレジットカード決済の3D認証でつまづいてたら、何故かはてな側でクレジットカード決済画面に進めなくなって。 (次に進むボタンが押せなくなった。1日1回の購入制限に引っかかった? 購入してないけど)
銀行でワンタイムパスワードの申込みをして、アプリをダウンロードして。
最終的にはちょこむのクレジット決済ではてなポイントを購入してから、フォトライフプラスを1ヶ月分購入するという。わりと手続きが大変だったけど、ようやく申し込み完了。
無事容量が10倍になった
有効期限
今日からちょうど1ヶ月。
なおかつ、毎月自動的にポイントが引かれるんじゃなくて、また必要になったら購入できそうな感じがする。
これなら、容量が足りなくなったタイミングでだけ、171円を払えばいい。
1ヶ月課金だけど2ヶ月分?
- 4月に課金して画像容量が引き上げられる
- 有効期限は5月まである
- 5月を迎えると、画像容量上限がマックスに回復する
とすると、実質1ヶ月分の課金で、2ヶ月分を買えたことになるのだろうか? それともシステム的にきっちり1ヶ月分になるのかどうかはまだ分からない。
感想
はてなポイント購入画面の「単品購入も出来るよ!」っていう表示。これがなければ1008円を支払っていたかも。
この表示は、はてなの売上にプラスになっているのだろうか、マイナスになっているのだろうか。それほど差はないのかもしれない。
戦略的に課金フローを構成しているのか、それともあまり考えられていないのか。
これこそユーザーの需要による価格帯の差別化的なアレだろうか。 往年のヒット書籍「スタバではグランデを買え!」を思い出した。
171円で表現の自由を買う
アップロード容量の上限におびえる毎日とは、これでさよならだ。
完全無欠コーヒーもどき featuring 「マリンフード ミルクを食べる乳酪バター」
良さ
完全無欠コーヒーと言っても、
- グラスフェッドバターではない。
- 無塩ではない。
だけど安いのと、ニュージーランド産であること、あとは味がすごく良いので気に入っている。
「グラスフェッドじゃなきゃダメ」「無塩じゃなきゃダメ」「撹拌しなきゃ意味がない」とは僕は思っていなくて、このバターでも、十分にエネルギーの高まりを感じ、空腹感を抑えられている。
- グラスフェッド => とにかく高い
- 無塩 => バターの塩分量は高くない
- 撹拌 => 満足度が落ちてしまう、美味しくない
グラスフェッドバター ( グランフェルマージュ バイオ・グラスフェッドバター )は、2017年4月現在、グラムあたり1000円はする。 肉で言ったら国産高級和牛ぐらいの値段だ。バターにそこまでお金をかけてられない。
だがこいつは450gで1000円ぐらい。グラムあたり200円。 雪印のバターよりも安い。素晴らしい。
こいつを4x8=32等分して、だいたい1かけら100kcalぐらいにして、毎朝食べている。
古い食事学とは真っ向から反するだろうが「低炭水化物」「中タンパク質」「高脂質」の食事を実践している。
すこぶる体調は良い。
味
はじめて口に入れた時、1秒で感動した。
「日本のバターとは、こんなに味が違うのか!!!」と驚愕だった。 バターにこんなにも味の違いがあるなんて。
あとは、色がちゃんと黄色い。 バターが黄色いのは(添加物で色付けさえしていなければ)、牛が健康な飼料を与えられている証拠みたいなものらしい。という話を聞いた。
品揃え
しかしこれ、僕の周りの店舗からは無くなって行ってる。 近所のスーパーからも、KALDIからも無くなってしまった。Amazonにはまだあるが、送料がかかる。
もっと「ニュージーランド産」ということを強調しても良いんじゃないだろうか。バターの本場みたいだし。
小分けタイプ
ちょっと高いが、食べやすいやつもある。
雪印
もうこいつには絶対戻れない。
MCTオイル
ちなみにこいつも試してみたが、あんまり満足感が得られないのと、手や容器がベトベトするのが防げないのと、あとは一度めちゃくちゃ腹が痛くなったので選択肢からは除外した。(体が慣れないと腹が痛くなるということ自体は知っていた)
ミニマリズム vs マキシマリズム ( 最小限主義 vs 最大限主義 )
- 理想の状態になるために、必要なものを増やす
- 理想の状態になるために、余計なものを減らす
あるひとつの事柄において、このどちらの考え方をするか。 個人の根本において、この価値観の違いは、行動に大きな影響を与えると思う。
たとえば健康学の世界では
- 原始時代の人間の食生活は、現代人の我々にとっても理想的なものだ (平均寿命が短かったのは、医学の未発達のせい)
- 農耕が始まってから、炭水化物の摂取量が増大し、人間は不健康になった
- その他、睡眠や運動など、ありとあらゆる点で「原始時代的な生活」が人間の本能には適している
という考え方がある。
たとえば発声(ヴォーカル)の世界では
- 人間が生まれた時は、赤ん坊は満点の泣き声を上げる
- 大人になるにつれ、発声に癖がついたり、自然な声を出すことが難しくなる
- 発声を学ぶというのは、ひとまずは、人間の全く自然な声を取り戻すことである
という考え方がある。
たとえばマインドフルネス、瞑想の世界では
- 人間は生まれた瞬間にはマインドフルネスである
- 大人になるにつれ、思考の癖が人間を不幸に傾けてゆく
- 幸福になるということは、心に新しいものを付け加えるのではなく、余計な癖を取り除いてゆくことだ
という考え方がある。(僕はそう理解している)
価値観の違い
- ミニマリズムは、理想の状態はもともと存在し、そこに「戻る」と考える。
- マキシマリズムは、理想の状態はもともとは存在せず、それを「得る」と考える。
限られたリソース
事実、人間の人生は有限であり、リソースは限られている。 それにも関わらず、現代においては、選択肢は無限であり、情報量は増大するばかりだ。
「やればやるほど、プラスになる」という価値観には、さすがに限界があるのではないだろうか。 部屋の片付けや、物質的なものだけではなく、人間の行動全般においても。
たとえば「本を読めば読むほど賢くなる」と思っても、人生で読める本には限界がある。たとえ、どんなに速読を身につけようとも同じだ。 そして、たとえば本を読めば読むほど賢くなったとしても、すなわち幸福になるとは限らない。
ミニマリズム的な考え方をするならば「必要な時に、必要な本を読めば良い」というのが正解だ。
だから「必要最低限」のラインを考えてみる。
たとえば100冊の本があれば、その中で1冊の本だけを読めば良い。 100冊読んだからと言って、100倍幸福になれるとは限らない。
これは膨大な選択肢の中から、余計なものを減らしていくという手順によって達成される。
知識をつける、勉強をする場合
たとえば、専門的な勉強をするのは、知識を「増やす」という行為だが、その中で最も重要な情報に注目するのは「減らす」という行為だ。
膨大な情報や知識の中で、個人のコンテキストにおいて、もっとも重要な情報はごく限られたわずかだったりする。 1%の重要な情報を見つけ出すために、勉強というものはあるんじゃないだろうか。
逆に、99%の不必要な情報の海に揉まれても、陸地にはたどり着けない。(あるいは、かなりの時間がかかる)
まとめ
- 理想の状態とは「そこに戻る」ものだと考えてみる
- 理想の状態を達成するために、何を減らせるか考えてみる (妨げになっている行動など)
- 最大限主義はすぐにリソースの壁にぶち当たる
- 必要最低限は幸福をもたらしやすい
何の発展性もない休日を過ごしたい
- 先週よりも、今週の方が発展性がない。
- 今週よりも、来週の方が発展性がない。
それが僕にとっての、理想の休日だ。 「発展性がないこと」においてのみ、発展を求める。
たとえばマクドナルドで、人の話し声の中、 何に役にも立たない本を読みながら、何の役にも立たない時間を過ごしたい。
先週、マクドナルドで僕が読んでいたのは、たまたまビジネス書だった。
だけどそれは、自分のためになると思って読んでいたわけではない。 なんの進展もない休日を過ごそうと、ただその時間を美しく過ごすために、脳を遊ばせていたのだ。
僕にとって、その時重要なのは、特定の本を読むことではなかった。 本を開きながら、人の話し声の中で、時間を過ごすという体験だった。
同じ本を読むにしても「これを読んだらもっと賢くなって、人生をよく出来る」という動機で読むのと、 「本を開きながら過ごす時間を味わう」という動機で読むのとでは、まったく感触が違ってくる。
目的のある休日は忙しい。
だから僕は本を読むことで、より賢くなろうとしたりしない。 より幸福になれる場所を探したりしない。 今後の人生設計も一切しない。
ただその日はその日として、その日のうちに過ぎ去っていくのみである。
午後18時にもなれば、だんだんと日が暮れてくる。 だけど「明日は仕事で嫌だ」とも思わないし、1日が終わったことに満足を感じる。
クリエイティブって何だろう
天才のクリエイティビティ
「クリエイティブ」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、どんなものだろう。 たとえば次のようなものじゃないだろうか。
- 一流アーティストの先鋭的な作品
- レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン
- 何千万人にメッセージを与える広告デザイン
- 人工知能の開発現場
- 心躍る Apple や Google の新規プロダクト
クリエイティブという言葉には「ごく一部の天才の所有物」という響きがある。
ピュアな存在のクリエイティビティ
もしくは
- 子どもが描いた落書き
- 象が描いた絵(そういうのがあるんだよ)
といったものかもしれない。
子どもや動物など、ピュアな存在にはクリエイティビティが宿っている、とそう考えるかもしれない。 だけど大人が同じことをやったら、それはクリエイティブじゃないんだろうか?
大人のクリエイティビティ
例えば大人が、
- 紙に簡単な絵を描く
- 携帯で写真を撮るととき、一番良いレイアウトを考える
- メールの文章を考える時、ほんのわずかなユーモアを潜ませてみる
- 料理をつくる時、クックパッドに書かれてない手順を取る
こういったものは、クリエイティブじゃないんだろうか? 僕はクリエイティブだと思う。
クリエイティブはごく限られた一部の人間のものではなく、どこにでも存在するものだ。 ただ僕らがそれに気づいていないだけで。
別に人に褒められるような、偉大な作品を描くのだけが、クリエイティビティではない。
狭い意味でのクリエイティブ、広い意味でのクリエイティブ
狭い意味でのクリエイティビティとは、今まで誰も思いつかなかったような形で、世の中にコンテンツを提供することだ。
広い意味でのクリエイティビティとは、今まで「自分」が思いつかなかったような発想を、日常でのアクションに反映させてみることだ。
それが大きいにしろ小さいにしろ、何らかのアイディアが脳に生まれた時に、それを封じ込めずに、何らかの形で描いたり、伝えたりしてみることだ。
世界には数十億人もの人間がいるのだから、それが「人類にとって、全く新しい発想」である可能性は、極限に小さいだろう。 だけどそんなことは関係ない。広い意味でのクリエイティビティとは、世界に評価されるためではなく、日常をほんの少しだけ楽しいものにするためにある。
だから、そもそも作品という形さえ取らないようなクリエイティビティで、世界は溢れているんじゃないだろうか。
僕はそう考える。
ところで
今朝は窓から、焼け付くような日差しが挿し込んでいた。 これを写真に収めたいと思った。
だけど、こういう朝陽の写真はもう何度も撮った。 僕はこの焼け付く感じを記録したいと思って、手をかざしてみることにした。
太陽に手をかざすなんて、おそらく世界中で、ずっと昔から使い古されてきたレイアウトのはずだ。
だけど僕自身は、いままで思いつかなかった。 そして「僕自身がこのレイアウトで写真を撮った」というのは、今までで初めてのアクションだったのだ。 (いや、もしかしたら昔にも同じような写真を撮ったかもしれないが、それは問題ではない)
ここでいうクリエイティビティとは、コンテンツの新規性ではない。 ひとりの人間のコンテキストにおける、アクションの新規性だ。
否定
だがここで 「これがクリエイティビティだって? 笑わせるな」という心の声が聞こえてくる。
そう、僕たちのピュアなクリエイティビティは「クリエイティビティの評価に値するか、否か」という心の声によって、死に絶えてしまいがちだ。
だがしかし「クリエイティビティ」と「評価」は本質的に異なる。 僕は、世間に向けて「クリエイティブでしょう?」と問いかけることなしに、ひそかに心の中で、クリエイティブってやつを楽しもうと思っている。