思い出 | イヤホンとヘッドホンを勘違いしていた音楽専門店

どうでもいい話。

僕が中学生の頃の話。 地元で、音楽器具の専門店に行った時。

僕がイヤホンを指して「このイヤホンは。。」というと おっちゃんのベテラン店員さんが「これはヘッドホン」「あっちがイヤホンだよ」といって、別の方を指した。

僕は 『耳につけるほうがイヤホンで、頭につけるほうがヘッドホンの気がするけど。。。』 『「イヤー(耳)」と「ヘッド(頭)」って』 と思った。

だけど、おっちゃんはかたくなに「イヤホン」を「ヘッドホン」と。「ヘッドホン」を「イヤホン」というのだった。 なにしろ専門店の店員さんだ。間違っているはずがない。 納得がゆかなかったが、世の中、分かりにくいもあるものだという感覚で店を出た。

そして、大人になってからも、この経験がきっかけで、まだどちらがどちらか分からなくなることがあるのだった。 というより、今の瞬間でさえ、勘違いしているのは自分の方なんじゃないだろうか、とさえ思えてくる。

いまAmazonで「イヤホン」って検索したら、ちゃんと耳につける小さいやつが出てくるから、きっとだいじょうぶ。

あれはなんだったのだろう。

当時も相当「えっ?」って思った記憶があるから、 たぶん、きっと、僕の記憶違いではないはず。

読書 | 「より少ない生き方 ものを手放して豊かになる」

いま読んでいる。

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日本での一人暮らしだし。 モノも別に多くないし。

もう十分なんじゃない? と思ったけど、気になったのでKindleにダウンロード。

他の「お片付け本」と違うのは、ミニマリズム自体が「人生の提案」だということだった。 「ミニマリズムを実践すればどんなことだって叶う」みたいなことも書いてあって、ちょっと過剰かとも思ったけど。

納得したのは

  • 物が少なければ、人生の重要な部分に集中できる。
  • 物が少ないほど、自分が死んだ時に迷惑をかけない。

という部分だ。

もともと物は多くない部屋だけど、さっそく、また不要なものを手放すことにした。

テレビを1年に1回ぐらいしか見なくなってしまったので、テレビを。 3個もある目覚まし時計のうち2個を。(インテリアとしてちょっと気に入っていたけど)

他、小物をたくさん。

この本に書かれているとおり「物を手放すのにもエネルギーが要る」ということが、身にしみて分かる気がした。 Amazonに出品したり、粗大ごみの申込みをしたり。 (なんでウェブから粗大ごみを申し込めないんだろう。粗大ごみの処分に電話が必要で、処分用のシールを買って、日時を決めてゴミを出すのって、ほんとハードルが高い)

ところで、物の少ない部屋を見ると、どことなく「つまらなくなった」とか、 「自分の一部が失われたような感じ」がするのだけど、これ自体が、刷り込みによって作られた感覚なのだろうか。

意識的に「物=重要」とは考えていないつもりでも、 無意識の部分では「物=重要」という感覚があるのかもしれないな。

物が減ってはじめて分かる感覚なのかもしれない。

「薄味の食べ物」は「味わえる食べ物」だ - コンビニサラダをドレッシング抜きで食べた

コンビニのサラダを、ドレッシングをつけずに食べてみた。 炙った鶏肉と一緒のやつだ。 そうしたら、鶏肉だけで十分な塩気があった。 だから、脂っこいドレッシングはかけずに捨てた。

「サラダにはドレッシングが必要だ」という固定観念に縛られていないか? だけど本当は、必要な塩分があればそれで十分に満足できる。

塩やスパイスやドレッシングは「おいしく食べられるだけの最低限の量」があれば良い。 まずいと思ってまでスパイスを切り捨てたら、まずいし。多すぎても健康に悪いし、素材を味わうことができない。

みんなご存知の通り、僕らは日頃から、濃い味付けに慣らされている。 そして「食べ物を味わう」という行為さえ忘れてしまっているから。

薄味の食べ物というのは、実は「味気ない食べ物」じゃない。 「味える食べ物」だ。つまり僕らに「味わう」という能動的な行為の余地を残してくれている。

LAWSONのブランパンはよく噛むと甘さを感じる

ローソンのブランパンを食べる。よく噛むと甘さを感じる。 香りをかぐとチーズっぽい。

成分はほとんどタンパク質で、低糖質、低カロリー。そして食物繊維も豊富だ。

このブランパンを食べていると、僕たちは日頃から、本当に「甘いもの」に慣らされているなと思う。 舌に触れた瞬間に「甘い」とか「美味い」とかいう食べ物に慣らされてしまって「自分から味わう」ということを忘れてしまっている。

ブランパンはよく噛まないと甘さがないから、自分から進んで味わう必要のあるパンだ。そこがまたいい。

しかしコンビニで、こんなに素晴らしいパンが長く発売されているのは、すごいことだな。

はじめての自炊体験 | PDFの電子書籍リーダーは sidebooks が良い!

Kindleになってない本が多すぎる。 ということで今日は自炊を初体験した。

日本では電子書籍化されていない紙の本もたくさんあるので、読みたい本があっても、躊躇してしまったり、いざ注文しても、やっぱり気軽には読めないし、部屋の中で場所もとる。 あとは電子書籍より「読書に手が伸びない」ということもあって、電子書籍化を真面目に検討して、実行した。

ところで、裁断機やスキャナは持っていないので、「自炊ができる店」に行ってみた。 法律的に言うと「自炊代行」は違法だが「自炊のためのスペースの貸し出し」はOKらしい。

その店に行くと、スキャナにはいくつか種類があって、本を裁断せずに電子化ができる機種もあるようだ。 最初、これは「すげえ、本を閉じながら全部自動で読み取ってくれるなんて、技術の最新鋭じゃないか」と思っていたのだが、どうやらページを1枚ずつ開いて、手でめくりながら、地道に作業をしていくタイプらしい。 店員さんの説明によると、作業も大変だしオススメしないということ。

なので素直に本を裁断してから自炊することにした。 ちなみに裁断作業だけは店員さんがやってくれた、

本をいったん裁断すると、90ページごとぐらいにスキャナが勝手にページを吸い込んで、電子化をしてくれる。 ページの中身はモノクロで読み取って、表紙だけカラーで読み取って、その二つを最後に結合するという作業をした。余計な空白のページは削除したりもできる。

あと、データを持ち帰るためにUSBメモリを用意してこようかと思ったのだけど、その必要はなかった。 自炊スペースサイトには「iphoneを持ってくるだけでOK」みたいなことが書かれていて、一体どうやってPCからiphoneにデータを転送するのかと思ったけど。 店のPCから普通にDropBoxにログインして、そこにファイルをアップロードする形式だということがわかった。ちなみに使うのは自分のアカウントだ。 なるほどね。じゃあiphone自体持ってくる必要ないな。便利だね。

お代は2冊で600円だった。 片方の本がページ数が多かったので「2冊」扱いになったため、実際には3冊分の値段だ。 自分の作業が発生するとはいえ、好きな本がずっと電子化されて読めると思えば、高くはない値段だと思う。

そうこうして無事2冊の本を電子化して帰宅すると、あとはそれを実際に読むためにいろいろと調べていた。 最初はAmazonKindle専用アドレスにメールを送って、kindleで読むだけだと思っていたら、Amazonの「プライベートドキュメント」で容量50MBの制限に引っかかって送れない。PDFなんて普通に50MB超えておかしくないのに、なぜこんな仕様なんだ。。

それでPDFの分割を試したり、PDFの圧縮を試したり、ibooksを試したり、色々やっていた。けっこう色々調べた。 結論としては自炊スペースの店員さんもオススメしていた sidebooks というアプリがかなり使いやすい。 日本書籍向けに本を「右綴じ」として認識してくれるところと、Dropboxと連携していること。あとはトリミング機能もあり、オプションで設定を変えればページめくりも素早い。 他のリーダーでは「トリミング機能がなく文字が小さくて読めない」のと「右綴じの本なのに左綴じとして扱われてしまう」のがかなりのネックだった。

Kindleで読めないのはちょっと残念だけど、紙の本をまともに電子書籍化できる環境が整ったのは良かった。 完全に満足ではないけれど、及第点といった感じだ。 ただちょっとページに対して文章が傾いてスキャンされてしまったので、この部分も解決できたら良いと思う。読んでてちょっと気になるし。

ところで、スキャナがOCR(文字の自動認識)をかけてくれるんだけど、どうやらその文字がそのまま電子書籍リーダーに出てきて扱えるというよりは、文字情報は主に検索用に使われるっぽい? なのでリーダーで文字に対して線を引いたり、ということはできないようだ。(環境にもよるかもしれない)

しかし本を電子化して読みたいだけなのに、けっこう調べ物をしなければいけなかった。 ほんと、そもそも最初からすべての本が電子化されていれば良いのに。

プログラミングは人類の問題解決の方法のひとつ

人は哲学を持つと強い。

今まで僕は「プログラミング」というもの自体に対して、あまり哲学を持てずにいた。 プラス面であっても「熱中すれば楽しいもの」ぐらいに感じていた。

そしてどこか「プログラミングと言っても、どうせ全部人が作ったものでしょ」と冷めて見てしまう自分もいた。

がどういうことかというと、一般的にプログラミングが好きな人は、プログラミングをどこか魔術めいたものと考えているというイメージがあった。 プログラミングを覚えるということを、世界の謎を解き明かすことのように感じているというイメージが。 「だけどどんなに謎めいていても、どんなにやり方を覚えても、どうせ人が作り出したものでしょ」と考えてしまう自分がいた。

たとえば科学や自然法則の勉強ならば、それを勉強するということは、世界を解き明かすことになる。 けれどプログラミングは科学や数学等に比べて、圧倒的に汎用性が低い知識体系だと感じてしまっていたのだ。 どんなに究極を求めても、どこにも答えがない。 暫定的な答えしか存在せず、どんなに勉強しても技術は廃れ、また他のものにとって変わられる。 夢を見ながら、終わりのないラットレースを走り続けているようなものだ。

しかし僕が改めて、プログラミングについて振り返ってみたとき、これは「人類の問題解決の軌跡」ではないかという考えに行き着いた。 プログラミングを勉強するということは、問題解決の方法を学んでいるのであって、問題解決の手法を進歩させることは、人間にとっての進歩であるはずだ。

こう考えてから僕は、今までよりもプログラミングが魅惑的に思えるようになってきた。 たとえひとつひとつの技術やメソッドは廃れるとしても「問題解決の方法」が進歩し続けることは確実だからだ。

もっと問題を解決しよう。問題解決のプロになろう。