早起きのコツはイメージングだ

早起きのコツ。

「起きる時間」と「やりたいこと」とイメージする

寝る前に起きる時間を強くイメージすることは、昔からの伝統的な方法らしい。 単に「何時に起きる」だけじゃなくて「何をする」ところまで具体的に考えた方が良いだろう。 なぜなら、人間は動機があるときにはじめて意欲が湧くからだ。

逆に「早起きしても何もしたいことがない」なら、そもそも早起きする必要はない。 やりたいことがあるから早起きをするんだ。

たとえば僕の場合だと「明日は朝6時に起きて瞑想をして、ブログを書いて、本を読んで、仕事の勉強をして、最高の状態で家を出よう」とイメージしたら、早起きがしやすいだろう。 たとえば夜に「早起きのイメージ」のために5分使ったとしても、それで次の日に1時間早起きができれば良い。

これを習慣にする。

カーテンを開ける

朝に部屋に光が差し込むようにする。これはかなり効く。 あとは部屋の照明を、朝に自動でオンになる設定にする。(そういう機能がある場合)

あとは世の中には「光の目覚まし時計」というものも売られているらしい。

失敗しても良い

早起きに失敗しても、自分を責めないようにする。 「やり方が悪かったんだ」「イメージが弱かったんだ」「もっとよいやり方があるはず」と考えて、自分を責めずに次から改善する。

ちゃんと具体的な原因を考える。 「前の日にお酒を飲みすぎた」とか「夜にたくさんの食事をとった」とか。原因が仮定出来れば対策を考えることが出来る。

深い眠りをイメージする

ちゃんとした眠りをイメージして、睡眠の質を高めるように努める。

睡眠不足に怯えない

「睡眠不足への恐怖」はおそらく睡眠の質を下げる。 「少々睡眠が足りなくても死にはしない」と考える。 「自分はわりと短い睡眠時間で回復できる体質だ」と考えてみる。

瞑想しながら眠りにつく

自分の呼吸に注意を向けて、余計な考えが浮かぶたびに、呼吸に注意を戻するようにする。

コスト vs 状態 | 価値基準を変える | 洋服をちゃんとハンガーに掛ける習慣を身につけた

たったひとつのシンプルな方法で。

それは洋服をハンガーにかけようとする時に「面倒だけどちゃんとやろう」と考えるのではなくて「スッキリした状態と、スッキリしてない状態の、どちらが好き?」と自分に聞くようになったことだ。

いままの考え方はそもそも「手間」「コスト」にコミットしていた。 これからの考え方は「状態」「理想」にコミットするものだ。

つまり「面倒さ」という価値基準で、それを打ち消そうとするのではなく、まったく別の価値基準での考え方を採用した。 同じ価値基準を持ったまま戦い続けても、僕たちは必ず負ける。だからまずは価値基準を変えてしまうのが良い。

これは全ての習慣に適用できる考え方だと思う。 「コスト」ではなくて「状態」のことを考えよう。そして「状態Aと、状態B、どちらが好き?」と自分に問いかけてみよう。

たとえば、次のように。

  • 玄関の靴を並び替えるのが面倒くさい => スッキリした玄関と、ごちゃごちゃした玄関、どちらが好き?
  • ワークアウトが面倒くさい => 引き締まった体の自分と、ゆるんだ体の自分、どちらが好き?

人生の哲学を持てば人生は100倍楽になる

「人生の哲学」を持つ男は強い。(もちろん、女性も) だけど生まれてから僕は数十年、人生の哲学など、今まで持ったことはなかった。 たとえあったとしても「楽しく過ごす」とか「無理をせず過ごす」とか、そういう軽やかなものばかりだった。

だけどつい最近、僕は人生の哲学というものを、はじめて持ってみようと思った。

哲学というのは、決して自然に見つかるものではない。 自分にの心に問いかけてみて、はじめて分かる。自らすすんで探し出すものなんだ。 僕たちは哲学を持ちながら生まれてくるわけじゃなくて、生まれてから哲学を探すんだ。

「人生の哲学を持つ」ということ自体が、僕たちの宿題だ。 宿題をずっと先延ばしにしてはいないかい?

僕が考えついた「哲学」の候補は、次の通り。

  • 人よりたくさん失敗する
  • 練習すればうまくなれる
  • 人生は確率の問題
  • 最高のエンディングのために毎日を過ごす

これは心から本当に感じたものばかりだ。

生の哲学が見つかるかそうでないかは、何がその二つを分けているのだろう。 たとえば「哲学のある男」にあこがれて、自分も哲学を持とうとしても、すぐにそんなことは忘れて、今まで通りの生活を送ってしまう。 「こんな哲学は自分には合わないかな」と思って、馬鹿らしくなってしまう。 まるで宿題をやろうとしても、何度も諦めてしまう子どもみたいだ。

だけど人生の哲学を持たなければ、自分が何をしたいのかさえわからずに、そのまま人生が終わってしまうかもしれない。 哲学というのは羅針盤で、それがないよりあった方が、100倍も航海が簡単になる。 その羅針盤を見つけるためなら、たくさんの苦労だって良いのだと思うけれど。 長い目で考えれば、羅針盤のない航海こそ、果てしなく最も無為で苦しい物なのだから。

羅針盤を手に入れよう。

僕達が「人生の哲学」を見つけづらい理由は、きっとちょっとした面倒臭さ。そして、ちょっとした自暴自棄だ。 哲学を見つける作業を怠って、どれだけ人生をさまよってきたかを思い出してみよう。 その「面倒臭さ」が、僕たちを長くさまよわせている張本人なのかもしれない。

哲学を見つけるのは、そんなに大変なことじゃない。 ちょっとした手間をかけて、自分への問いかけをしてみれば良いだけなんだ。

人生がエンディングを迎えるまでの素敵な過ごし方

「最後には死んでしまうから意味がない」という声

君が何か物事を進めているとき、こんな考え方が浮かぶことはないだろうか。 「どうせ最後には死んでしまうのだから、何をしても無意味だ」という考え方が。

たとえば何かを勉強して、昨日より良くなり、気持ちが楽になり、前には出来なかったことが出来るになる。 毎日、何かしらの進歩を感じる。物事がうまいように運び始めている。

だけど、そんな時「どうせ最後には死んでしまうのだから、何をしても無意味だ」という声が、頭の中から聞こえてくる。 それはもしかしたら、そこまで過激な「死んでしまう」という表現ではないかもしれない。 「もしこの仕事をやめたら、今していることは何の意味もない」とか、そういう表現で声が聞こえてくるかもしれない。

どちらにしても、物事がうまく進んでいるときに限って、たびたびこういった声が現れて、せっかくうまく進んでいる物事を、やめさせたり、後戻りさせようとすることがないだろうか。

もしそういう声が聞こえて来たときは、こういう風に考えることも出来る。 たとえば、もし君が本当に、心の底から「最後には死んでしまうから何をしても意味がない」と考えているなら、君はもう既に死んでしまっているはずだ。 なぜなら、生きる意味が存在しないのだから。

だけど君はそうはしない。まだ生きて毎日を送っている。 そして君が好きなことや、しなければいけないことをしている。 ということは、君が今していることには、必然的に理由があるはずなんだ。

たとえば君が今までに、ゲームや他の物事に熱中していたときのことを思い出してみてほしい。 その時「どうせエンディング(終わり)が来るのだから、ゲームをやめよう」なんて思っただろうか。 そうではなく、熱中しながらゲームを終えたんじゃないだろうか。 「終わりがあるから無意味だ」じゃなくて「楽しいからこそ、終りが来るのが惜しい」と思ったんじゃないだろうか。

これは僕たちの人生でも、同じことが言えると思う。 仮に、人生がひとつのゲームだとすれば、僕たちは必ずいつか、エンディングを迎える。 だけど何か物事に熱中していたら「エンディングが来るから、遊ぶのをやめよう」なんて思わないはずだ。 エンディングを迎えるための間に、少しでもたくさんのゲームをしたいと思うはずだ。

こう考えると、人生は「エンディングがあるから、無意味」なんじゃない。 「エンディングがあるからこそ、意味がある、そして輝かしい」ものだと思えてこないだろうか。 少しでも多くのゲームをしたり、少しでも好きなエンディングを迎えるために日々を過ごすなら、君がいましていることは決して無駄じゃない。 君が好きなことをしたり、物事に熱中しているときに、それを肌で感じているということこそが重要なんだ。

人生のエンディングは怖くない

あとひとつ。

もしかしたら、君は人生のエンディングが恐いから「何もかもが無意味だ」と思いたかったのかもしれない。 だけど実は、人生のエンディングは決して恐いことじゃない。みんなが恐いと思いこんでいるだけのものなんだ。

これはちょっと突飛な考え方だと思われるかもしれない。 「人生のエンディングがどんなものになるだろう」と考えると、なんだかワクワクしてこないだろうか。

君は、普通のゲームであれば、きっとエンディングを楽しみに(あるいは多少心残りに)思うはずだ。 それなら、僕たちの人生だって、まったく同じことが言えないだろうか。

この人生というゲームがどんな風なエンディングを迎えるのか、それはどんなグラフィックで、どんな音楽を乗せて流れるのか。 それまでにどんなクエストをクリアするのか、自分がどういう風にレベルアップして、どんなモンスターを倒すのか。 それを考えると、この自生というゲームをもっと楽しんでやろうと思えないだろうか。

しかもこの人生というゲームは、他のゲームより自由度が何百倍も高くて、自分次第でどんなエンディングだって作る出来る。少なくとも、作るように努力することは出来る。 君の心構え次第で、君が好きなエンディングに近づけることが出来るんだ。

これほどワクワクすることはないと、僕は思うんだけどな。

それじゃあ、良い人生を。

実用書を積読しない方法

いま自分が一番、問題に感じていることを、解決してくれそうな本を買う。 たとえば僕は今「優先順位の付け方」に問題を感じているから、それに関する本を買う。

自分の「関心」を100%の基準として本を選ぶ。 逆に「これ、今は興味がないけど、今後の役に立つだろうなあ」という本は、まず心に響かないし、まず何のプラスにもならない。 なぜなら、いま問題を感じていない事柄だから。

そして本を買ったら「ハズレ」があることも覚悟しておく。 だから1冊買ってまあまあだったら、他の本も2,3冊買ってみる。 1冊目が名著だと思っても、その情報を補完するために、他の本も買ってみる。

何か問題を感じたら、とりあえず本を買って読むクセをつける。

マインドフルネス | 瞑想を初めて2ヶ月で得られた効果

瞑想(マインドフルネスのワーク)を続けていて、最近、本当に心が落ち着いてきた。 瞑想をしている間だけではなく、日常を過ごしていてもだ。

今まであんなに、心が、不安や怒りや後悔で満ち溢れていたのに、 こんなに平穏で良いのだろうか? と思うぐらい。

瞑想を始めた最初の頃は、

  1. 何かネガティブな思考が浮かぶ
  2. 体が反応して辛くなる
  3. 思考を止める
  4. 時間が経つと、やがて体も安らかになる

という感じだったのだが、今は、何かネガティブな思考が浮かんでも、そもそも、体があまり反応を起こさなくなってきた。 あとは、自分の思考に気づいてから、それを止めるまでの時間が、ものすごく速くなった。 特に、自分がよくするタイプの考え方。「顔なじみ」の思考は一瞬で止められる。おそらく思考が浮かんでから1秒以内には、その考えを避けることが出来る。

マインドフルネスの本にかかれている「脳のある部分には可塑性」があるということを、理屈ではなく、体で実感している。 今までは「思考」→「体の強い反応」が強いクセになっており、強固な鎖で結ばれていたのが、その鎖が細くなり、たやすくは連鎖を起こさなくなったような感じだ。 無意識に、自分の思考と距離を置けている感じだ。

まだ「対処が慣れていないタイプの思考」にはイライラしたりすることもある。 体調や環境、他の出来事でも、その日にどれだけマインドフルでいられるかは変わってくる。

だけど確実に「思考に小突かれても、バランスを崩さない」ようになってきている。 マインドフルネスが「バランスを取って立っている状態」だとしたら、今までは3の力でバランスを崩していたのが、10の力でも持ちこたえられるようになった感じだ。

もちろん、あまり強い力で押されたら、バランスを崩すこともある。 だけど、今までだったら倒れていたところを、ギリギリで持ちこたえられることもある。 たとえば嫌なことがあって、イライラしながら帰路についても、「バランスを保とう」という心構えは捨てずにいられる。

たとえ倒れてしまっても、その次の日には自然に起き上がることが出来る。

たった二ヶ月でここまで心を安定させられるツールは、たぶん他に無い。

英語 - 音読60分に集中した

今日は音読をしながらも、集中するコツを掴めた気がする。 音読をしながら、いろんな考えが浮かんでくる。

本当に音読をするだけで勉強になっているのか。 明日はTOEICの試験だ。 この本はイギリス英語だから、テストの勉強にはならないんじゃないか。 そもそも英語を習ってどうなるのか。 仕事に役立てるために勉強するんだ。 何度も調べたこの単語の意味をまた忘れている。 日本で一番、英語の音読がうまい人になりたい。 だけどそれには相当な練習をしなきゃ。本業が英語関係じゃないから無理だろう。 このページをめくって1章が終わりかと思ったら、まだ続きがあるのか。

。。。英語に関してだけでも、このような雑念が浮かび上がってくる。 他のことに関しても含めたら、もっと多い。

だけど、そういった考えが浮かんだときに、とらわれるのでもなく、抵抗するでもなく、優しく、思考が過ぎ去るのを待ってあげる。 そして、音読することに注意を向ける。

これを繰り返すことによって、今日はいつもよ。時間を忘れて音読が出来たように思う。 1時間と時間を決めたけど、気付いたら自分の感覚よりもずっと速く時間が過ぎていた。

勉強のコツは雑念との付き合い方だと思った。