人生がエンディングを迎えるまでの素敵な過ごし方

「最後には死んでしまうから意味がない」という声

君が何か物事を進めているとき、こんな考え方が浮かぶことはないだろうか。 「どうせ最後には死んでしまうのだから、何をしても無意味だ」という考え方が。

たとえば何かを勉強して、昨日より良くなり、気持ちが楽になり、前には出来なかったことが出来るになる。 毎日、何かしらの進歩を感じる。物事がうまいように運び始めている。

だけど、そんな時「どうせ最後には死んでしまうのだから、何をしても無意味だ」という声が、頭の中から聞こえてくる。 それはもしかしたら、そこまで過激な「死んでしまう」という表現ではないかもしれない。 「もしこの仕事をやめたら、今していることは何の意味もない」とか、そういう表現で声が聞こえてくるかもしれない。

どちらにしても、物事がうまく進んでいるときに限って、たびたびこういった声が現れて、せっかくうまく進んでいる物事を、やめさせたり、後戻りさせようとすることがないだろうか。

もしそういう声が聞こえて来たときは、こういう風に考えることも出来る。 たとえば、もし君が本当に、心の底から「最後には死んでしまうから何をしても意味がない」と考えているなら、君はもう既に死んでしまっているはずだ。 なぜなら、生きる意味が存在しないのだから。

だけど君はそうはしない。まだ生きて毎日を送っている。 そして君が好きなことや、しなければいけないことをしている。 ということは、君が今していることには、必然的に理由があるはずなんだ。

たとえば君が今までに、ゲームや他の物事に熱中していたときのことを思い出してみてほしい。 その時「どうせエンディング(終わり)が来るのだから、ゲームをやめよう」なんて思っただろうか。 そうではなく、熱中しながらゲームを終えたんじゃないだろうか。 「終わりがあるから無意味だ」じゃなくて「楽しいからこそ、終りが来るのが惜しい」と思ったんじゃないだろうか。

これは僕たちの人生でも、同じことが言えると思う。 仮に、人生がひとつのゲームだとすれば、僕たちは必ずいつか、エンディングを迎える。 だけど何か物事に熱中していたら「エンディングが来るから、遊ぶのをやめよう」なんて思わないはずだ。 エンディングを迎えるための間に、少しでもたくさんのゲームをしたいと思うはずだ。

こう考えると、人生は「エンディングがあるから、無意味」なんじゃない。 「エンディングがあるからこそ、意味がある、そして輝かしい」ものだと思えてこないだろうか。 少しでも多くのゲームをしたり、少しでも好きなエンディングを迎えるために日々を過ごすなら、君がいましていることは決して無駄じゃない。 君が好きなことをしたり、物事に熱中しているときに、それを肌で感じているということこそが重要なんだ。

人生のエンディングは怖くない

あとひとつ。

もしかしたら、君は人生のエンディングが恐いから「何もかもが無意味だ」と思いたかったのかもしれない。 だけど実は、人生のエンディングは決して恐いことじゃない。みんなが恐いと思いこんでいるだけのものなんだ。

これはちょっと突飛な考え方だと思われるかもしれない。 「人生のエンディングがどんなものになるだろう」と考えると、なんだかワクワクしてこないだろうか。

君は、普通のゲームであれば、きっとエンディングを楽しみに(あるいは多少心残りに)思うはずだ。 それなら、僕たちの人生だって、まったく同じことが言えないだろうか。

この人生というゲームがどんな風なエンディングを迎えるのか、それはどんなグラフィックで、どんな音楽を乗せて流れるのか。 それまでにどんなクエストをクリアするのか、自分がどういう風にレベルアップして、どんなモンスターを倒すのか。 それを考えると、この自生というゲームをもっと楽しんでやろうと思えないだろうか。

しかもこの人生というゲームは、他のゲームより自由度が何百倍も高くて、自分次第でどんなエンディングだって作る出来る。少なくとも、作るように努力することは出来る。 君の心構え次第で、君が好きなエンディングに近づけることが出来るんだ。

これほどワクワクすることはないと、僕は思うんだけどな。

それじゃあ、良い人生を。