そして誰もいなくなった 2019-03-18
走ることより、休むことのほうが、ずっと難しい
たまに思う
もう二度と人生で会わない人は、僕にとっては、死んだのと同じなのだと。もう二度と会わないだろう、過去に別れた恋人や、縁を切った友達も、そうだ。そんなことを考えていると、とても切ない。
jq コマンドって覚えたいよね?
自己肯定感という言葉を聞くだけで、自己肯定感が落ちる
曜日感覚は捨てたほうが良い
平日を乗り切って休日を迎えたかと思いきや、また平日は始まるし、カレンダーは無限に続いていく、どこまでも終わりがない、永遠の地獄だ。週5日間をなんとかこなすことに、費やすようなジンセイ、そんなのは嫌だ。
0.1秒に1回ぐらい、エゴが脳を取り込んでくる気がする
そいつに、良いときならば、1分に1回ぐらいは、対抗できる。だけど、まだ1万戦1勝レベルなんだよ。
目を開くことより、閉じることのほうが、ずっと難しい、そんなタイミングもある
いくら思考して、問題解決の痕跡を残したかに思えても、結局はただインクの染みを、残したに過ぎない
本当に儚いものだ。あらゆる全ての、形ある錯覚。
家族の暖かさを、感じたい
1年に1度ぐらいは、都合の良いことに。
具体的方策によって、エゴを超えることを、人生の課題とする
これがなかなか、本当に難しい。
毎日の日記の名前が「いなうらゆうまはここにいた」と、名前を主張し過ぎな気がしたので「そして誰もいなくなった」に変えてみた
だけどあまりに寂しすぎる気もした。「いなうらゆうまへここにいなかった」とか「いなうらゆうまは消え去った」も、物寂しさがあるような感じがする。この名前にもう少し、愛着を感じてやっても良いのかもしれない。
あの地平線輝くのはどこかに君を隠しているからってどこに隠したんだ?ベッドの下?
今日はスターバックスと新規開拓のカフェで、5杯のラテを飲み、帰り道、自分の死に方について考えていた
いかに死ぬべきか。なぜ現代でこれを考えうと、自殺願望というイメージがあるのだろう。たとえばこれが武士であれば、死に方を見出すは、ほまれなり、的な、あれだよ、あれ。昔の侍の1万分の1の気概もないけれど、自分の生と死に関して、ほんの僅かでも日頃から、心構えをしておきたいものだ。もう35歳。いままで続いてきたこのストーリーが、終わる日が来るなんて、とても信じられない。信じられはしない。
自分が善人面しているような感覚に陥る時の自分が一番嫌いだ
だけど意図せず陥ってしまうこともあるんだ。それは照準を当て間違えた時の話だ。
人生が遊びで、本当に良かった
自分がこう思うから、人もこう思っているだろうという、錯覚と、錯覚だと分かっていながら、説得力のある、圧倒的なパワーよ
恋愛でも、家族関係でも、仕事のやり取りでも、錯覚と思い込みが、巨大な力で僕らを支配している。
いち早く自我から解き放たれたいとエゴが騒ぐ夜
喋り過ぎた時は、独特の罪悪感が、うっすらとある
そうじゃない人もいるんだろうか。いるんだろうな。
どうかあなたには、自分に優しくする方法だけは、覚えておいてほしい
人生で一番好きな瞬間が、朝早くのスターバックスで、抹茶のティーラテを口につけた最初の時で、人生で一番嫌いな瞬間が、朝早くのスターバックスで、Wi-fiのログイン画面が出てこずに、美しい時間がただ浪費されていくのを、眺める時