部屋のスペースが空いて感じたメリット
のひとつ。
筋トレをしやすくなった。 朝起きたら「腕立て伏せをしよう」って気持ちが起こる。 なぜなら、それが出来るスペースが空いているから。
最初は、スペースが空いたままなのは、家賃的にもったいない気がしていた
- 「スペースがあるなら、何か新しい物を置きたい」
- 「スペースが空いているから、もっと小さな部屋に引っ越したい」
- 「このスペースのために、毎月数千円を払うのは贅沢だ」
とか思っていたけれど。 「スペースが空いていること自体に価値がある」っていうことを理解し始めた。
全てのスペースを活用しなくても良いのだ。 スペースが空いていること自体が、ものすごく優れた活用方法なのだ。
「CHEESE CRAFT WORKS & GRILL 茶屋町店」でひとりシュラスコしてきた
念願だった、ひとりシュラスコに行ってきた! 以前、大阪駅近くの「バルバッコア」に行って感動したので、いちどやってみたかったのだ。
今月、新装開店したらしい。 90分制、食べ放題、3000円だ。
この店はメニューは少ないがアクセスは良い。 梅田界隈では、専門店はここぐらい?
階段を登る。楽しみ。
四人席に通された。
一人で占拠するのは、なんか店に悪いかな、、、と思ったけど。 店内は広く、他にも席が空いていて安心した。
お手洗いどちらですか? と聞いたら 「黄色いブタさんの横です」と返ってきた。 さんづけかわいい。
奥の方には小洒落た席があった。
サラダビュッフェは至って普通な感じ。 (シュラスコさえ美味ければ良い)
ドリンクも至って普通。 (シュラスコさえ上手ければそれで満足だ)
「どれが何の飲み物」って書いてないから、烏龍茶っぽいやつを注ぐ。
メニュー。まずは全品がテーブルに回ってきて、それが終わったら自由にオーダーできるらしい。 (食べたくないものは、断ることも出来る)
今日の目的はあくまでシュラスコなので、サラダビュッフェは控えめにする。
タレは三種類。 左から柚子酢のタレ、マスタード風味のタレ、和風の甘いタレ。
だがやっぱり肉はシンプルに塩をつけて食べたい。 店員さんに塩をもらった。 (固まっていて何も出てこなかったので、いちど取り替えてもらった)
ウィンナー、ローストチキンがやってくる。 とりあえず食べてみる。普通の味だが、シュラスコさえ美味ければいい。
ところでこの店のランチは、色とりどりの部位が食べられるわけではなく、シュラスコといえばピッカーニャぐらい。 だけど結局ピッカーニャが一番美味いので、そこさえ外さなければ問題ない。
ピッカーニャ!
だが、なんとなく「これ、昨日焼いたの?」って感じがする。。。 熱々ホクホク感がない。早い時間に入りすぎたか、それともただの偶然だろうか。 (シュラスコは部位によって当たりハズレが大きいから、仕方ないかもしれない)
ペッパーステーキ! ものすごく噛みごたえがある。味は良い。
豚バラ! これも美味い。 だがやはりなんとなく「昨日作ったの?」って感じが少しする。。 (ちなみに個人的には、メニューはピッカーニャとこの豚バラだけでも満足だ。美味ければ)
ローストポテトとリングイカは断った。 次に来たのは、焼きチーズだ!
なんか。。。。イメージと。。。違う。。。。
雪印のチーズをチンしたみたいな。そんな感じ。
嘘みたいだろ。。。ここ。。チーズ専門店なんだぜ。。。。。。
かなりの衝撃だった。
次に、グリルオニオン。 これは外れるはずがない。美味い。
ただシュラスコ切りのシェフ(?)の人が、切るのに失敗して、微妙に笑いながら去っていった。 (包丁を上向きにして、そこに玉ねぎを乗せて、重力を使って切る、みたいな技なのだ)
そして全メニューが終了。 だが店員さんから「ここからはオーダー自由です」という合図はなかった。 (隣の席の人には伝えていたのを聞いた)
5分経っても何もないので、自ら「もう頼んでもいい感じですか?」と言って、ピッカーニャを注文する。
「何枚ぐらいですか?」と聞かれたので「4枚ほど」と答える この店では枚数を聞くシステムらしい。(なんでだろう)
だが待つこと20分。。。いつまで経ってもピッカーニャは来ない。
仕方がないので kindle を読んで過ごす。
英語を勉強しようとするがまったく頭に入ってこない。
もうあの衝撃の焼きチーズから30分は経過している。。 さすがにオーダーミスだと理解し始め、店員さんに再度お願いする。
その五分後にピッカーニャ到着。
いや、いいんだけど。。 確かに4枚あるんだけど、グラデーションで小さくなっているというか。。 脂身のない部位になっていってるというか。。
(自分が瞬時に「裏側の脂の乗った部位もよろしく!」とか言えば良かったんだけど)
脂の乗ったところは美味かった。
ただその内1枚がこれというのは。。。シュラスコっぽくないなあ。
さらに豚バラを頼むと、10分後に到着! これは文句なしに美味い。熱々でホクホクだ。
さらにピッカーニャを注文! だがこれも、来たのは20分後だった。
そして、なんだこれは。。。ケシズミか。。。?
と思ったが、これが美味いんだった。脂が乗っていて最高。
見かけでシュラスコを判断してはいけないと反省した。
あと1オーダーしたかったのだけど、次のひとり映画の時間が迫っている。 というかもう30分は過ぎている。
90分制のはずだが、2時間でオーダーできたのはようやく3回だ。 (時間きっちりで追い出されなかっただけ良かった)
新装開店したばかりだし、地価の高そうな地域だし、店も色々大変なのかなあ。。。。と思った。 (ピッカーニャばかり食べる僕のような客ばかりでは、たぶんやっていられないだろう)
しかし食べ放題とは言っても、1オーダーに20分もかかるので、とにかく軽いストレスとの戦いであった。 そして、時間が迫っていたので完全な満腹にはなれなかった。
お店の責任者らしき人には「今日はお忙しかったんですか?」「1オーダーに20分かかっていたこと」ということを小声で丁重に、少しどもりながらお伝えしておいた。 もう少しだけ肉がホクホクで、すぐに出てきてくれたら、また来たい店なんだけど。。。
そして、映画には、遅れた!
VS バルバッコア
梅田バルバッコアはここより1000円高いけど
- 全ての肉が熱々ホクホクだ
- これでもかとばかりに、次々と肉を持ってきてくれる
- ビュッフェが充実していて、美味いチーズもある
- デザートもついている
ということで、ランチに4000出す覚悟があるなら、そっちに行ったほうが満足できるかもなあ。
エネルギーの多い人、少ない人
最近思うことは、1日に出来ることはものすごく少ない。 自分が思い描くよりも、1/10ぐらいのことしか出来ない。
だから僕は、そこに関しては諦めることにした。
「何か良いやり方をすれば、もっと1日を有意義に過ごせるんじゃないだろうか」 「自分のやり方が間違っているから、思うことを全て出来ないんじゃないだろうか」
そんな考えを捨てて、自分の時間やエネルギーを、とても儚いものとして扱うことにした。
思うに人間には、エネルギーがたくさんある人と、ちょっとしかない人がいる。 エネルギーがたくさんある人は、1日に無限のことが出来る。 エネルギーが少ない人は、1日に出来ることはほんの少しだ。 人の10倍も活動できる人もいるし、人の1/10しか活動できない人もいる。
これが真実かどうかは分からない。たぶん、真実ではないかもしれない。 だけど僕はそう考えた方が納得がいくので、今はこの考え方を採用している。
自分の場合、そもそも毎日の睡眠時間が長いという問題がある。 9時間か10時間ぐらい寝て、ようやく満足する。 今まで何度となく睡眠時間を縮めようと挑戦をしたが、そのたび、反動を受けて、結局は平均9時間ほどの睡眠に落ち着くのだった。
僕にとって睡眠は切実に必要なものだ。 ということが、最近ようやく理解できてきた。 だから僕は睡眠時間を縮めようという抵抗をやめることにした。
だから、僕が持っている時間は人よりも短い。
自分が「10のことが出来る」と思ったら、それは「1のことが出来る」という意味なのだ。 「10のことをやり遂げたい」と思ったら、それは「1のこと」に絞った方が良い。
だけど、仮に人よりエネルギーが10倍少ないとしても、幸せも10倍少ないというわけじゃない。 なぜなら、たとえ100のことを全てやり遂げても、100のの幸せを手に入れられるわけじゃない。
たぶん人生に本当に必要なものは、僕たちが思うよりもずっと少なくて、10%の本質に集中さえできれば良いのだから。
「名もなき街にたどり着いた」って歌詞
たまにあるけど。
ぜったいその街、本当は名前あるって。 ちょっと人に聞けば分かるから。
だって絶対、自分たちの街って愛着あるじゃん。 「柏木町」とか「南町」とか、絶対名前がついてると思う。
ミニマリズム | 窓。広い視界。
ようやく部屋もシンプルになってきた。
最初は「物がなくなって寂しい」という感覚があったけれど。 それは単に人間が、得たものより失ったものを意識してしまうからじゃないだろうか。
最近は、窓に向かって朝を迎える。広い視界。 余計なものは何もない。とてもすがすがしい気分だ。
物を失って、体験を手に入れた。
目に見えるものが変わると、気分や体験も変わる。 たとえば、どこかに旅行をして、広大な景色を見た時は、もちろん気分は変わる。 だけど「自分の部屋」にいる時は、それを意識してなかったんだなあと思った。
そういえば、こんな実験をしたことがあった。 自分の部屋で、窓の方向に目を向ける。 次に、雑然とした一角に目を向ける。 たったこの一瞬だけで、本当に自分の気分が変わってしまうのだ。 ふだん自分の想像以上に「目に見える物」に、意識とか、気分は左右されているんだなと思った。 (自分の場合は「気にしやすい性格」なので、特に影響があるかもしれない)
僕は自分の部屋でも、綺麗な景色を見ておきたい。
物を手放すのには大きなエネルギーが要る
いろんなものを処分していると、本当にそれを感じる。
まずそいつが「要る」か「要らない」かを判断する。 これだけでエネルギーを使う。 判断を誤ったら、また書い直しだ。
次には、手放す方法を判断する。 普通に捨てるか、人にあげるか、Amazonのマーケットプレイスで売りに出すか、ヤフオクに出すか。
捨てる場合、大きいものだったら、粗大ごみセンターに電話をして、住所を伝えて、粗大ごみシールをコンビニに買いに行って、受付番号を書いて、回収日を待つ。 (この「センターに電話する」というのが心理的にすごく面倒で、半年ぐらい先延ばししてしまったりする)
Amazonで売るなら、コンディションを確認して、売る値段を考えて、商品を登録して、売れるのを待つ。 「このぐらいなら、すぐに売れそうかなー」っていう値段設定を考える。 そいつが売れるまでは、注文があるかどうか、毎日メールをチェックするようになる。 売れた後は、納品書を印刷して、ダンボールを用意して、梱包して、ゆうパックの伝票を書いて、遅れないように発送する。 いつまでも売れないアイテムがあれば、また良い値段を推測して値下げしたり、出品を停止して、やっぱり普通に処分することにする。
人にあげるなら、まずあげる人を考える。 家族に送る場合、会社に持っていく場合、特定の人に渡す場合。 それぞれ「相手に必要なものかどうか」を考える。 あげることが決まったら、手渡す時まで家にとっておいたり、相手の場所まで持って運んだりする。
こうやって少しずつ物を手放してゆく。 すべて「ぽいっ」と捨ててしまえたなら簡単かもしれないが、エコ的にも、モラル的にも、お金的にも、思い入れ的にも、捨てやすいものばかりではない。
物を買うのは簡単で、Amazonで1クリックするだけで良い。(何を買うかの比較検討には、エネルギーを使うけど) だけど手放すのはそれより5倍か10倍ぐらいは大変なイメージだ。
いままで物を手放すのに、自分の想定より簡単だったことは一度もない。 いつだって「思っていたより数倍は大変だった」というのがほとんどだ。 これは、部屋を大片付けしたときの経験を思い出せば、分かってもらえるはず。
「どうせ、すぐに手放せるでしょ」 「気に入らなければ売ればいいでしょ」 って軽く考えているのは誤解で、実はたくさんのエネルギーが必要なのだ。