物を手放すのには大きなエネルギーが要る

いろんなものを処分していると、本当にそれを感じる。

まずそいつが「要る」か「要らない」かを判断する。 これだけでエネルギーを使う。 判断を誤ったら、また書い直しだ。

次には、手放す方法を判断する。 普通に捨てるか、人にあげるか、Amazonマーケットプレイスで売りに出すか、ヤフオクに出すか。

捨てる場合、大きいものだったら、粗大ごみセンターに電話をして、住所を伝えて、粗大ごみシールをコンビニに買いに行って、受付番号を書いて、回収日を待つ。 (この「センターに電話する」というのが心理的にすごく面倒で、半年ぐらい先延ばししてしまったりする)

Amazonで売るなら、コンディションを確認して、売る値段を考えて、商品を登録して、売れるのを待つ。 「このぐらいなら、すぐに売れそうかなー」っていう値段設定を考える。 そいつが売れるまでは、注文があるかどうか、毎日メールをチェックするようになる。 売れた後は、納品書を印刷して、ダンボールを用意して、梱包して、ゆうパックの伝票を書いて、遅れないように発送する。 いつまでも売れないアイテムがあれば、また良い値段を推測して値下げしたり、出品を停止して、やっぱり普通に処分することにする。

人にあげるなら、まずあげる人を考える。 家族に送る場合、会社に持っていく場合、特定の人に渡す場合。 それぞれ「相手に必要なものかどうか」を考える。 あげることが決まったら、手渡す時まで家にとっておいたり、相手の場所まで持って運んだりする。

こうやって少しずつ物を手放してゆく。 すべて「ぽいっ」と捨ててしまえたなら簡単かもしれないが、エコ的にも、モラル的にも、お金的にも、思い入れ的にも、捨てやすいものばかりではない。

物を買うのは簡単で、Amazonで1クリックするだけで良い。(何を買うかの比較検討には、エネルギーを使うけど) だけど手放すのはそれより5倍か10倍ぐらいは大変なイメージだ。

いままで物を手放すのに、自分の想定より簡単だったことは一度もない。 いつだって「思っていたより数倍は大変だった」というのがほとんどだ。 これは、部屋を大片付けしたときの経験を思い出せば、分かってもらえるはず。

「どうせ、すぐに手放せるでしょ」 「気に入らなければ売ればいいでしょ」 って軽く考えているのは誤解で、実はたくさんのエネルギーが必要なのだ。

ブランド香水と安い香水の違いって何?

現代では化学的に、どんな香りでも作り出せるっていう話を聞いた。

なので「ブランド香水」の香りも、化学的にものすごく簡単に作れるんじゃないだろうか。

安い降水との違いは、容器と、イメージの違いだけ。 実際に、今自分が持っている香水の成分表を見ると「香料」「アルコール」とか書いてある。

数あるブランドもの中でも、香水こそ「価格の全てがイメージ」っていうアイテムかもしれない。

お片付けとミニマリズムの違い

お片付けとミニマリズムの違いは、「行為」か「主義」かの違いだ。

お片付けは「行為」だ。 あわよくば、それを通して生活や人生が変わったらラッキー。

ミニマリズムは、その名の通り「主義」だ。 自分にとって重要なこと(生活の平穏さとか)を担保するために、最小限のものだけを持つようにする。 より価値観にコミットした考え方だ。

ミニマリズム。日本語に直すと最小限主義。 これは主義なので、1回や2回の行為におさまらない。 「定期的、頻繁におこなう行為」でもない。 生活全般を通して「最小限のものしか持たない」という方針で過ごすことだ。

これには「サラダをたまに食べる人」と「菜食主義者」ぐらいの違いがある。

ミニマリズムを採用する点の良いところは、軸がブレにくいというところだ。 物を捨てるにも、新しい買い物をするにも「これは最小限か?」「今の自分に必要なものか?」「今自分が欲しているものは何か?」と考える習慣を持つことになる。 目的と手段を理解して行動するようになる。

だから、「なんだかよく分からないけど部屋を片付ける」ということはない。 本当に必要なものであれば、手元に置いておくという判断をする。 そもそも、物中心の考え方を離れる。

「物は多ければ多いほど良い」と考えるのは、物中心の価値観だ。 だが逆に「物は少なければ少ないほうが良い」と考えるのも、それもまた別のタイプの「物中心」の価値観だ。 なぜなら、物の多さや少なさが、価値の判断基準になってしまっているからだ。

ミニマリズムでは「必要なものが、今、周りにあること」を重視する。 そして「不要なものが、今、周りにないこと」を尊重する。

物は多ければ良いというものでも、少なければ良いというものでもない。 だけど現代人は放っておくと、つい多くの物を持ちがちなので、ミニマリズムの実践を始めたら、結果的には物の量は減る可能性のほうが高い。 ミニマリズムでは「物の量」は結果であって、目標ではないのだ。

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注文で「お願いします」って言わない男のフォーマット

ラーメン屋で注文する時。 「担々麺ひとつ」とか。

「サイズはどうされますか?」って聞かれても。 「普通で」とか。

「普通で」の「で」まで出てるからには、そこに省略されてる「普通で(お願いします)」が隠れているはずなんだ。

だが男は「お願いします」って言わない。 わりと高級そうな料理店でも。 「特製神戸牛ステーキで」とか。

まるで「お願いします」って言っちゃダメなルールがあるかのように、絶対に「お願いします」って付けない。 これ、かなり気になる。

別にこれは店員さんを見下してるとかいう話ではないと思っているけれど。 無意識に、料理店で注文する時の「フォーマット」になっているんだと思うけれども。 だけど、それにしてもあんまりにも言わないので気になる。

たとえば仮に、上司に連れられて焼肉に行ったとする。

それで、その上司に「なんでも食べていいよ。何にする?」って言われたら、 「ハラミで。。。」とか答えないわけじゃん。 「あ、ハラミなんかいいですね。お願い致します! いや〜、美味しそうですよね」とか言うかもしれないわけじゃん。

コミュニケーションって、人に何か聞かれたらいつもは「単語」で答えないわけじゃん。

それに我々はだいたい、就職活動をして、ものすごく細かい部分の礼儀作法にまでこだわったことがあるはずだ。 それで「弊社を希望された理由はなんですか?」と聞かれたら「別に」とか答えないわけじゃん。

「お願いします」って絶対言わない人(男ならだいたいそうなのかもしれないけど)の感覚って、たとえばドラゴンクエストで、道具屋に買い物に来たのに近いんだろうか。

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「やくそうひとつ」でAボタンを押すみたいな。

店員さんにメニューを答えるのは「コミュニケーション」ではなくて「ボタン押下」ってくくりなのかもしれない。 おそらく本人が意識していないだろう部分だけに、気になる。 どんな意識(あるいは無意識)なのか。

今度飲食店に行ったら、他の人がどんな頼み方をしているか観察でもしてみようか。

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人生で知らずに損していたものたち

Mak book

ノートPCって、どうも慣れなかった。

とても扱える気がしなかった。 よくみんな、ノートに順応できるなと思ってた。

だから外付けキーボードと外付けマウスをずっと使っていた。

だけど Mac Book を買ってから、自分が悪いんじゃなくて、今まで優れたタッチパッドと内臓キーボードに巡り会えていなかっただけなんだと分かった。 Apple のデバイス力は本当にすごい。さわっていて気持ち良い。堅牢な感じがする。 人体工学に基づいてるイメージ。ストレスフリー。 どんどんキーを打つのが楽しくなってくる。

Windows ノートは機種によって色々だけど、僕が前使っていた機種は、タッチパッドの感度が、ほんとうに。。。。ひどい。 15万円はしたメーカー機種なのに。キーボードの触り心地もしっくり来ない。

Mac Book を知らなくて人生損してた。

電気圧力鍋

これを買ってから、本当に自炊の習慣が身についた。ほぼ毎日自炊をしている。 健康的な定食屋に通うより、食費がずっと安く済むし、簡単だし、なおかつたくさんの栄養がとれる。

以前に自炊に挫折したのは「面倒臭さ」と「不味さ」が一番の理由だった。 カレーを作ったらひたすら毎日、カレーカレーカレー。 味に失敗したら、料理を作るのも嫌いになる。洗い物も大変だ。

電器圧力鍋は、手間なしで本当に美味しく出来る。 作り方は野菜と肉とだしを入れて、ボタンを押すだけ。 ただ煮るのと圧力で煮るのとでは、まったく出来上がりが違う。感動する。 もちろん定番の「豚の角煮」はいちどはやった。

洗い物が難しくなるようなものは作らない。 冷蔵庫に入れたりしたら不味くなるから、作り置きはしない。電子レンジも使わない。

これで毎日、あったかくて美味しい鍋や味噌汁を食べて、心から美味いと思って、ほっとできている。 (久しぶりに昔通っていた定食屋に行ったら、自炊と比べて、あまり美味しいと感じなくなっていたぐらいだ)

特に栄養的な面から言って、電気圧力鍋を知らずに人生損していた。

マッサージ器具

今はそうでもないのだけど、一時期は本当に肩がこって仕方なくて、ものすごく辛かった。

そんな時、ドクターエアーのマッサージ枕と出会って「この世の中で、こんなにも安く、救いを与えてくれるものがあったのか!!」と感動を覚えた。 1万円を出して、永久の癒やしと幸福を手に入れたような気がした。

嫌だったことの個数を数えて励ますメソッド

嫌なことや落ち込むことがあった日は、嫌だったことの個数を数えるようにしている。 今日1日、マイナスだと感じた出来事を、あえて振り返ってみる。

「あれも嫌だったし」「あれも悲しかったし」「そういえばあれでもプレッシャーを感じた」という風に。 そうすると「これだけ嫌なことが重なったんだから、気分が落ち込んでも当たり前だ」と自分への励ましになる。

たとえば「50kgの重りなら持ち上げられるけど、100kgは無理だ」みたいな感じで。 「今日は100kgの重りがやってきたから、持ち上げられなくても当然だ」と考えてみる。

「メタ苦悩」という言葉がある。 自分が落ち込んでいるという事実にさえ、落ち込んでしまうような現象。 これを防ぐために「今日は落ち込んでも当たり前さ」と自分に声をかけてやる。

そんな励ましのメソッド。

コンビニレジの生産ロットに乗せられて

コンビニの店員さんの、人を人とも扱わない目が苦手だ。 絶対に目を見ない。

「イラッシャイマセー」 「ヨンヒャクキュウジュウエンニナリマスー」 「イコカデノオシハライデスネー」 「コチラタッチオネガイシマスー」 「アリシターマタオコシクダサイマセー」

文章では表現できない、けだるい感じで対応されるのが嫌いだ。

それぞれの店員さんで口調や、温度感、接客のニュアンスは違うと思うのだが、共通しているのは「何か嫌だ」という思い。 言うなれば「人間なのに、物扱いされる感覚」だ。 まるで、生産ロットで扱われているような気がする。

だいたいコンビニに2回行くと、少なくても1回はこの「物扱いされる感」を味わう気がする。 (この1回の印象が強すぎて、コンビニは全てが同じだ、という感じがする)

中には物腰が丁寧な店員さんもいる。だけどなぜか「それでも、嫌だなあ」と感じる場合が多い。 これは「物をぞんざいに扱っている」か「物を丁寧に扱っているか」の違いにすぎない、というか。 どちらにしても僕は、彼らにとって、次々と流れてくる生産品の一つにすぎないのだ、とか考えてしまう。

そう、コンビニに求められているのは、愛想の良さではない。 求められるのは「欲しいものが気軽に買える」という機能なのだから、接客なんかを期待するのはそもそも的外れだ。 だけど僕はコンビのレジに立つたび、多少なりとも「嫌だなあ」と思わずにはいられない。 少なくとも、愛想は悪くても良いから、人間を見る目で見てほしいなと思う。

思うのは、コンビニというのは、いい気分になれそうな、街のほっとステーションのようであって、実はアウェイな場所なのだ。 主導権を握っているのは店員さんだ、決して客の僕らではない。

それに比べると、たとえばスターバックスの店員さんは、お客を「人扱い」してくれる気がする。 スターバックスに行って、店員さんの対応で、嫌な気分になったことはいちどもない。 それはスタバの店員さんがきっと、こちらを当たり前のように、物ではなく人として扱ってくれているからだと思う。 下でも上でもない、対等な関係として、だけど最大限の親切を心がけてくれている感じだ。

表面的な物腰の丁寧さとか、言葉の使い方とかは、実は問題ではない。 「どういう気持ちで、相手を見ているか」というのは伝わりやすく、とても重要だ。 人間はきわめて社会的な動物だから。きっとその部分には敏感だ。

だから何かの店のレジに立つたびに、一喜一憂するような日々。 僕がレジに立つたび感じる「なんとなく嫌だなあ」を言葉にするなら、こんな感じ。