食い意地が張っていることの懺悔
食品廃棄量が世界一高いこの日本という国で、食べ物を大事にしたいと思う。 外食に行って、人が残しているものがあれば、ぜひ頂きたいと思う。 食べかけのものをいただくわけではない。ただ手付かずのままのものであれば、いただきたい。
だけど恥じらいもなく「それ残ってるなら、ください」というのは、あまりにも意地汚い。 人間としての品性が疑われる。 きっと人も無碍には断らないだろうが、実は密かに、生理的嫌悪感を持たれる危険性がある。 食べ物をくださいと頼んで好感度が下がることがあれど、上がることはないだろう。 たったひとときの胃の満足のためだけに、これはあまりにも危険な賭けだ。
大勢で行く食事ならば「この皿はもう誰も食べないな」というタイミングを常に見計らっている。 誰も食べない皿ならば、自分が全部平らげてやりたい。 最初はちゃんと「一人分の量」は守るけれど、テーブルの空気を読みながら、タイミングをうかがって、なるべく最大の量をいただきたい。 誰も食べないものならば、どうせなら僕が頂きたい。 それも、意地汚く思われずに、スマートにいつの間にか平らげてやりたい。
たとえば会社の懇親会で、他のテーブルに余った、手付かずの肉料理を狙っていたりする。 どうせ食べきれずに捨てられてしまうのならば、美味しい料理を我が胃に収めたいと思う。 それによって、料理も、料理を食べきれなかった人も、自分の胃も救ってやれるのだから、こんな慈善行為はないと思う。 だけど何故か「その余り物をください」と言うのがためらわれる。 宴もたけなわの頃、皆がもう帰りかけた時、さりげなく残されたメインディッシュたちを回収したい。
このようなあさましい行為。 自分では「きっとばれていないだろう」と思っているが、たぶん周りにはバレているんじゃないか。 それが人事評価に響く可能性があるとさえ空想する。 もし僕が逆の立場だったら、たとえどんなにできた人だろうとも、他のテーブルの料理まで虎視眈々と狙うような奴は嫌だ。 言うなれば、明るいスケベではなく、ムッツリスケベ。 情動的犯行ではなく、計画的犯行だ。きっと罪科は重くなる。
だから僕はせめて、食い意地が張っているということを、人に明かせるような人間になりたい。 人の裏をかくように、手付かずの食べ物を掠め取るのではなく、「美味しそうなそれを、わたくしに一品いただけますでしょうか」と、紳士的にお願いできる人になりたい。
僕は明るい食いしん坊になりたい。
部屋のスペースが空いて感じたメリット
のひとつ。
筋トレをしやすくなった。 朝起きたら「腕立て伏せをしよう」って気持ちが起こる。 なぜなら、それが出来るスペースが空いているから。
最初は、スペースが空いたままなのは、家賃的にもったいない気がしていた
- 「スペースがあるなら、何か新しい物を置きたい」
- 「スペースが空いているから、もっと小さな部屋に引っ越したい」
- 「このスペースのために、毎月数千円を払うのは贅沢だ」
とか思っていたけれど。 「スペースが空いていること自体に価値がある」っていうことを理解し始めた。
全てのスペースを活用しなくても良いのだ。 スペースが空いていること自体が、ものすごく優れた活用方法なのだ。
「CHEESE CRAFT WORKS & GRILL 茶屋町店」でひとりシュラスコしてきた
念願だった、ひとりシュラスコに行ってきた! 以前、大阪駅近くの「バルバッコア」に行って感動したので、いちどやってみたかったのだ。
今月、新装開店したらしい。 90分制、食べ放題、3000円だ。
この店はメニューは少ないがアクセスは良い。 梅田界隈では、専門店はここぐらい?
階段を登る。楽しみ。
四人席に通された。
一人で占拠するのは、なんか店に悪いかな、、、と思ったけど。 店内は広く、他にも席が空いていて安心した。
お手洗いどちらですか? と聞いたら 「黄色いブタさんの横です」と返ってきた。 さんづけかわいい。
奥の方には小洒落た席があった。
サラダビュッフェは至って普通な感じ。 (シュラスコさえ美味ければ良い)
ドリンクも至って普通。 (シュラスコさえ上手ければそれで満足だ)
「どれが何の飲み物」って書いてないから、烏龍茶っぽいやつを注ぐ。
メニュー。まずは全品がテーブルに回ってきて、それが終わったら自由にオーダーできるらしい。 (食べたくないものは、断ることも出来る)
今日の目的はあくまでシュラスコなので、サラダビュッフェは控えめにする。
タレは三種類。 左から柚子酢のタレ、マスタード風味のタレ、和風の甘いタレ。
だがやっぱり肉はシンプルに塩をつけて食べたい。 店員さんに塩をもらった。 (固まっていて何も出てこなかったので、いちど取り替えてもらった)
ウィンナー、ローストチキンがやってくる。 とりあえず食べてみる。普通の味だが、シュラスコさえ美味ければいい。
ところでこの店のランチは、色とりどりの部位が食べられるわけではなく、シュラスコといえばピッカーニャぐらい。 だけど結局ピッカーニャが一番美味いので、そこさえ外さなければ問題ない。
ピッカーニャ!
だが、なんとなく「これ、昨日焼いたの?」って感じがする。。。 熱々ホクホク感がない。早い時間に入りすぎたか、それともただの偶然だろうか。 (シュラスコは部位によって当たりハズレが大きいから、仕方ないかもしれない)
ペッパーステーキ! ものすごく噛みごたえがある。味は良い。
豚バラ! これも美味い。 だがやはりなんとなく「昨日作ったの?」って感じが少しする。。 (ちなみに個人的には、メニューはピッカーニャとこの豚バラだけでも満足だ。美味ければ)
ローストポテトとリングイカは断った。 次に来たのは、焼きチーズだ!
なんか。。。。イメージと。。。違う。。。。
雪印のチーズをチンしたみたいな。そんな感じ。
嘘みたいだろ。。。ここ。。チーズ専門店なんだぜ。。。。。。
かなりの衝撃だった。
次に、グリルオニオン。 これは外れるはずがない。美味い。
ただシュラスコ切りのシェフ(?)の人が、切るのに失敗して、微妙に笑いながら去っていった。 (包丁を上向きにして、そこに玉ねぎを乗せて、重力を使って切る、みたいな技なのだ)
そして全メニューが終了。 だが店員さんから「ここからはオーダー自由です」という合図はなかった。 (隣の席の人には伝えていたのを聞いた)
5分経っても何もないので、自ら「もう頼んでもいい感じですか?」と言って、ピッカーニャを注文する。
「何枚ぐらいですか?」と聞かれたので「4枚ほど」と答える この店では枚数を聞くシステムらしい。(なんでだろう)
だが待つこと20分。。。いつまで経ってもピッカーニャは来ない。
仕方がないので kindle を読んで過ごす。
英語を勉強しようとするがまったく頭に入ってこない。
もうあの衝撃の焼きチーズから30分は経過している。。 さすがにオーダーミスだと理解し始め、店員さんに再度お願いする。
その五分後にピッカーニャ到着。
いや、いいんだけど。。 確かに4枚あるんだけど、グラデーションで小さくなっているというか。。 脂身のない部位になっていってるというか。。
(自分が瞬時に「裏側の脂の乗った部位もよろしく!」とか言えば良かったんだけど)
脂の乗ったところは美味かった。
ただその内1枚がこれというのは。。。シュラスコっぽくないなあ。
さらに豚バラを頼むと、10分後に到着! これは文句なしに美味い。熱々でホクホクだ。
さらにピッカーニャを注文! だがこれも、来たのは20分後だった。
そして、なんだこれは。。。ケシズミか。。。?
と思ったが、これが美味いんだった。脂が乗っていて最高。
見かけでシュラスコを判断してはいけないと反省した。
あと1オーダーしたかったのだけど、次のひとり映画の時間が迫っている。 というかもう30分は過ぎている。
90分制のはずだが、2時間でオーダーできたのはようやく3回だ。 (時間きっちりで追い出されなかっただけ良かった)
新装開店したばかりだし、地価の高そうな地域だし、店も色々大変なのかなあ。。。。と思った。 (ピッカーニャばかり食べる僕のような客ばかりでは、たぶんやっていられないだろう)
しかし食べ放題とは言っても、1オーダーに20分もかかるので、とにかく軽いストレスとの戦いであった。 そして、時間が迫っていたので完全な満腹にはなれなかった。
お店の責任者らしき人には「今日はお忙しかったんですか?」「1オーダーに20分かかっていたこと」ということを小声で丁重に、少しどもりながらお伝えしておいた。 もう少しだけ肉がホクホクで、すぐに出てきてくれたら、また来たい店なんだけど。。。
そして、映画には、遅れた!
VS バルバッコア
梅田バルバッコアはここより1000円高いけど
- 全ての肉が熱々ホクホクだ
- これでもかとばかりに、次々と肉を持ってきてくれる
- ビュッフェが充実していて、美味いチーズもある
- デザートもついている
ということで、ランチに4000出す覚悟があるなら、そっちに行ったほうが満足できるかもなあ。
エネルギーの多い人、少ない人
最近思うことは、1日に出来ることはものすごく少ない。 自分が思い描くよりも、1/10ぐらいのことしか出来ない。
だから僕は、そこに関しては諦めることにした。
「何か良いやり方をすれば、もっと1日を有意義に過ごせるんじゃないだろうか」 「自分のやり方が間違っているから、思うことを全て出来ないんじゃないだろうか」
そんな考えを捨てて、自分の時間やエネルギーを、とても儚いものとして扱うことにした。
思うに人間には、エネルギーがたくさんある人と、ちょっとしかない人がいる。 エネルギーがたくさんある人は、1日に無限のことが出来る。 エネルギーが少ない人は、1日に出来ることはほんの少しだ。 人の10倍も活動できる人もいるし、人の1/10しか活動できない人もいる。
これが真実かどうかは分からない。たぶん、真実ではないかもしれない。 だけど僕はそう考えた方が納得がいくので、今はこの考え方を採用している。
自分の場合、そもそも毎日の睡眠時間が長いという問題がある。 9時間か10時間ぐらい寝て、ようやく満足する。 今まで何度となく睡眠時間を縮めようと挑戦をしたが、そのたび、反動を受けて、結局は平均9時間ほどの睡眠に落ち着くのだった。
僕にとって睡眠は切実に必要なものだ。 ということが、最近ようやく理解できてきた。 だから僕は睡眠時間を縮めようという抵抗をやめることにした。
だから、僕が持っている時間は人よりも短い。
自分が「10のことが出来る」と思ったら、それは「1のことが出来る」という意味なのだ。 「10のことをやり遂げたい」と思ったら、それは「1のこと」に絞った方が良い。
だけど、仮に人よりエネルギーが10倍少ないとしても、幸せも10倍少ないというわけじゃない。 なぜなら、たとえ100のことを全てやり遂げても、100のの幸せを手に入れられるわけじゃない。
たぶん人生に本当に必要なものは、僕たちが思うよりもずっと少なくて、10%の本質に集中さえできれば良いのだから。
「名もなき街にたどり着いた」って歌詞
たまにあるけど。
ぜったいその街、本当は名前あるって。 ちょっと人に聞けば分かるから。
だって絶対、自分たちの街って愛着あるじゃん。 「柏木町」とか「南町」とか、絶対名前がついてると思う。
ミニマリズム | 窓。広い視界。
ようやく部屋もシンプルになってきた。
最初は「物がなくなって寂しい」という感覚があったけれど。 それは単に人間が、得たものより失ったものを意識してしまうからじゃないだろうか。
最近は、窓に向かって朝を迎える。広い視界。 余計なものは何もない。とてもすがすがしい気分だ。
物を失って、体験を手に入れた。
目に見えるものが変わると、気分や体験も変わる。 たとえば、どこかに旅行をして、広大な景色を見た時は、もちろん気分は変わる。 だけど「自分の部屋」にいる時は、それを意識してなかったんだなあと思った。
そういえば、こんな実験をしたことがあった。 自分の部屋で、窓の方向に目を向ける。 次に、雑然とした一角に目を向ける。 たったこの一瞬だけで、本当に自分の気分が変わってしまうのだ。 ふだん自分の想像以上に「目に見える物」に、意識とか、気分は左右されているんだなと思った。 (自分の場合は「気にしやすい性格」なので、特に影響があるかもしれない)
僕は自分の部屋でも、綺麗な景色を見ておきたい。