スマホはたやすく魂を奪う ( デジタルデトックスやってみた )

人生ではじめて、意識的に携帯を持たずに出かけてみた。

タブレットもノートPCも持たずに出かけた。

 

持っていったのは財布と鍵ぐらい。

 

わりと勇気が必要な決断だった。

だけど挑戦だ。

 

変化 ( いつもの休日と違ったこと )

何度も時間を見ようとするが、スマホがないことに気付く

ふと時間が気になっても、今が何時か分からない。

そして「何時だろう?」「スマホがない」という手順を何度も繰り返すうちに、だんだんと、時間そのものが気にならなくなってきた。

良い意味での学習性無気力とでもいうのだろうか。


あと、街には意外に時計が少ない、ということにも気付いた。

 

面白いものを見つけて、写真を撮ろうとするが、スマホがないことに気付く

写真に撮れないから、ちゃんと立ち止まって、経験しておかないと、という気持ちになった。
なのでふだんよりじっくりと対象を見たり、音を聞いたりしてみた。

たぶん立ち止まる時間は、スマホを持っている時より2倍ぐらいになった。

 

実はこの挑戦を始める時、最初は、写真ぐらいは撮れるように

SIMカードだけ抜いてスマホは持っていこう」とか

「ずっと機内モードにしておこうか」とか思ったのだけど、

思い切って「まったくスマホを持ち歩かない」という決断をした。

 

(なぜなら今回の目的は、電子機器がどれぐらい「体験」を濁してしまっているかを確かめたかったから、完全にやってみたかった)

「トマト カロリー」とか調べ物をしようとするが、スマホがないことに気付く

でも、調べ物をしなくても死なないことが分かった。

 

街行く人の顔がよく見えた

不思議なことに。

たぶん意識の状態が変わったんだと思う。

 

ふだんは、たとえスマホを直接触っていない時間でも、なんとなく「ポケットにスマホがある」という感覚があって、それに意識が奪われていたんじゃないだろうか。

(たとえば、ある研究によると、人と話す時、テーブルにスマホが置かれているだけで、人の意識は逸れてしまうという)

 

「ポケットにスマホがある感覚」「いつでもスマホを触れる感覚」がないだけで、かなり意識の状態が変わったように思う。

 

選択肢が減って、目の前のことに集中できた

「選択肢が多い」ということは、それだけ心が迷いやすいということでもある。

 

たとえば読書をしていても「この感動をブログに書こうか」「いや、それとも読書を続けようか」という判断をしなくて済むのは大きい。

ただ読書に集中することが出来た。

 

何の記録も残らない、シェアもしない体験

こんな休日を過ごしても、1枚の写真も残らないし、SNSにもシェア出来ない。

だけど、だからこそ、なんて美しい体験なんだろうと思った。

儚いものほど美しい。

(写真を撮って後から見返す素晴らしさも、十分に知っているけれど)

帰宅後、スマホやPCを触った時に、新鮮さを感じた

惰性で触ってしまうのではなくて、まったく新しいもののように感じた

感想

実は僕は日頃から、電子機器に心を奪われず、目の前のことに集中する訓練をしている。

だけど「スマホを持ち歩かない」挑戦は、さらに35%ぐらい、体験の質を高めてくれたように思う。

(逆に普段、無意識に、それだけ電子機器に意識を奪われているということだ)

 

スマホを持ち歩かない休日は、

 

スマホやブログの中に魂はない」

「本体はこっちだ!」

 

という感覚を高めてくれた。

 

週に1度ぐらいは、まったく電子機器を持たずに出かける日、デジタルデトックスの日を作ってみても良いかもしれない。

 

それでもブログを書いたりする?

電子機器を持ち歩かずに、1日の最後に書くブログというのも、なかなか良いものだ。

問題なのはたぶん、スマホSNSのことが1日中頭の中にあって、常に現在の体験を汚してしまうことだから。

 

 

 

 

ブックカフェで相席する方法 ( LUCUA 1100 梅田 蔦屋書店 より )

ブックカフェで本を読んでいる。

すると、右の席で、奇妙なことがおこなわれていた。

 

ひとりのおじさんが、ひとりの男に、

「ここよろしいですか?」と訪ねて、目の前に座る。

 

だが男は、何も答えない。

そのままおじさんは、男の向かいの席に座った。

 

「世の中には、勇気のある人もいるんだな」と思っていた。

そしておじさんはやがて、席を立った。

 

だがその30分後、また別の女性が

「ここ、よろしいですか?」と、男に話しかけた。

 

男はまた、なにひとつ答えない。

目の前の人に、視線さえ合わせない。

 

なんなのだろうこれは?

なぜ右の席の男に、かわるがわる人が訪れて、相席をしていくのだろうか。

 

しかも、お互いは知り合いでもなく、男は拒絶をするでもなく、ただ沈黙によって相席を受け入れ、そして、人が入れ替わってゆくのだ。

(僕が見る限り、全部で3人分の相席を、右側の男は受け入れた)

 

これは何か重大なことが、裏側でおこなわれているような気がした。

 

もしかしたらネットで相席を募集して、

「ブックカフェで相席してみるイベント」でもおこなわれているのかもしれない。

だけど仮にそういうイベントであれば、男が沈黙しているのは奇妙だ。

「あ、田中さんですか?」「あ、はい、へへへ」みたいな、てへっとした挨拶のひとでもあっても良さそうなものだ。

 

もしかしたら店の公式サービスとして

「相席申込書」のようなものがあるのかもしれない。

いや、それはないだろうけれど。

 

もしかしたらこの小説が立ち並ぶブックカフェで、まるで小説チックな取引が、秘密裏におこなわれているのかもしれない。

誰もスーツケースは持っていなかったけれど。

 

なぜ、右側の男だけなんだ。

右側の男だけに相席の相手が訪れ、そして去ってゆくのだろう。

 

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そうして、さらに数時間も経ったころ、

「ここよろしいですか?」という声が、またまた聞こえた。

 

だがそれは、右側の男に対してではなく、この僕に対してのものだった。

 

「ここよろしいですか?」の流れがあまりに綺麗すぎて、

僕は思わず「はい、よろしいですよ」と言って、PCやら本やらを広げてあった、テーブルのスペースすら空けた。

 

そして今相席をしながら、本を読んだり、こうしてブログを書いていたりする。

 ( ところで人の足に肖像権はあるのだろうか )

 

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このブックカフェでは「相席力」の高い常連さんがいて、

流れるような動作で「居心地の良い席」を確保しているのかもしれない。

 

ちなみに、まったく嫌な経験ではなかった。

一瞬だけ見知らぬ人と話すというのも、良いものだ。

 

( 今度来たらあの右の、一番相席されやすそうな席に座ってみようか )

 

小説を読むということ

小説を読むと、確実に自分の心に影響があるということを知った。

 

例えばふだん、頭の中でつぶやく思考のスタイルが、少しだけ変わる。

とめどなく頭の中に流れてくるセリフが、やや小説口調になる。

 

 

頭の中の言葉が変われば、世界の捉え方も少し変わる。

ふだん、自分が当たり前だと思っている、自分というものの認識にくさびが入れられる。

 

小説を読んで、少しも自分の思考に影響を受けないということは難しい。

 

 

 

スタンダードな現実と小説の現実

 

たとえば、こう考えてみる。

たとえば世界の観方というものが10000種類あるとしたら、

僕らが普段見ているのは、その中の1種類に過ぎない。

 

スタンダードな現実。

社会的な現実。

そのレールの上にいることで、僕らは意思疎通することが出来る。

 

だけど、あくまでそれはレールにすぎない。

 

小説は役に立つか立たないか

 

「小説を読んで何になるの?」

「現実の役に立たないじゃん」

と思うのは、それは1種類の現実だけの話だ。

 

小説はそもそも「別のタイプの現実」の存在を知らせてくれるわけだから、

僕らのスタンダードな現実の尺度で推し量ることは、まったく出来るはずがない。

 

世界Aの貨幣は、世界Bでは使えないのだ。

逆もまた然り。

 

小説を読むという体験を

非常に優れたものだと感じる。

文字情報を認識して、抽象的な理解をするという、人間の脳の高度な働きを目の当たりにする。

 

たった500円ほどで、ここまで上質の体験をもたらしてくれるものは、他にはなかなかない。

僕らに必要なのは少しのお金と、あとは集中力だけだ。

 

こんなに小説が素晴らしいものであっても、やがていつか、忘れ去られる作品もあり、太陽も燃え尽きて、この地球も消えて、紙も燃えてしまうのだな。

なんてことを考えたりする。

 

一生ですべての小説を読むことも出来ないし、仮に出来たとしても、すべてを二冊ずつ読むのは難しいだろう。

 

小説を読むということは

人間にとって一体なんなのだろう。

その定義がまず、難しい。

 

小説が僕に訴えかけてくるメッセージは、こうだ。

 

「定義するな!」

 

 

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時間を忘れて生きられますか?

ちょっと難しいけれど。

 

あまり、時計なんかは見ずに生きれば良い。

 

一番大事なのは、心の中で時間を思い出さないこと。

 

たとえば休日にどこかの店、本を読んで過ごしている。

 

「あと何分、この店にいられるだろう?」

「どのぐらい経ったら、次の場所に行こう?」

 

そんな思いが心に現れるたび、目の前の、本のページに意識を戻す。

物語の世界に帰る。

 

そしていつの間にか時間が経って、

コーヒーを5杯も頼んだりして、

「お客さん、閉店ですよ」と告げられて、はっとする。

そんな過ごし方が、時間を忘れる生き方。

 

そんな風に、いつの間にか夜が来てしまっても、時間を無駄にしてしまったとは思わない。

なぜなら、時間自体を忘れているから。

 

 

ところで僕らというものは、あまりに時間というにものに慣らされているから、

時間がない世界を思い出すのは、普通ではなかなか難しい。

 

 

だけど時間を忘れた世界というのは、きっと、いちどもシャワーというものを浴びたことのない人が、はじめてシャワーを浴びたり。

そういうことに似ていると思う。

 

 

騎士団長殺し 読了 2017.06.13

美味い食事を食べ終わる時が切ないように、

面白い物語を読み終わる時も切ない。

 

あと一口食べたくなるし、あと1ページ読みたくなる。

小説はいくら摂取してもカロリーにならないのが良い。

 

約1ヶ月ほど、ブックカフェに通い続けて読み終えた。

( 本代は払ってないけれど、お茶代はたくさん払った。そのあたりの勘定は、コーヒー店と本屋でいい塩梅にやってほしい )

 

紙の本と電子書籍の一番の違いは

「手に持って、あとどれぐらいのページが残っているのか、重さで分かるか分からないか」かもしれない。

 

何かが起きているようで、何も起きていない、でも何かが起きているような物語。

サスペンスでもない、ミステリーでもない、謎解きがあるようでない、こんなに掴みどころのない小説がベストセラーになるのは、なんて素晴らしいんだろう。

 

解説サイトや、他の人の感想は読まずに過ごしたい。

それとも誘惑に負けて、この小説を読んだ体験を濁してみようか。

 

 

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この小説について文章で語れるほど、僕には語彙がない。

だけどたぶん、脳は文章の隙間から、物語のニュアンスを感じていた。

 

言葉にならない部分が一番美味しい。

それが小説というものかもしれない。

 

 

糖質制限 | ケンタッキーの CHIZZA プルコギ味 ( カロリー 851kca / 炭水化物 32.9g ) を食べた

感想

糖質制限中なので、ピザを半年は食べてなかった。

だけどケンタッキーのこいつは「ピザを食べている気分」にさせてくれた。

 

本当に美味かった。

栄養情報

カロリー 851kcal

タンパク質 68.6g ( ! )

脂質 49.4g

炭水化物 32.9g

 

1000kcalぐらいあるかと思ったけど、予想よりちょっと低かった。

これだけボリュームがあって、炭水化物も低めなので、糖質制限中でも問題ない。

 

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( [170530栄養成分表、アレルゲン情報(KFC).xls](https://www.kfc.co.jp/menu/pdf/OR_nutritional_20170530.pdf) )

 

開けるのがワクワクする箱

 

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ピザといえば辛いソース

ホットソースも注文した。ぬかりない。

 

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で、どーん!

 

 

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プルコギが 溢れんばかりに入っている

 

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4枚のうち2枚にホットソースをかけてみる

 

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ごちそうさまでした

 

発売期間が終わる前にあと1枚は食べたい。

全てのホテルからテレビをなくせ

なぜホテルには、テレビが置かれているんだろうか。

それは、退屈を紛らわせるようにだろう。

だけどビジネスホテルならいざ知らず、レジャーホテルにも必ずテレビが置かれている。
「体験」を大事にしているはずの、ディズニーの公式ホテルにさえテレビがある。

これって馬鹿らしいと、誰も考えないんだろうか。

僕らは「ホテルにはテレビがあって当たり前」という常識に縛られているんじゃないだろうか。

綺麗な調度品ばかりのホテルにも

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なぜかテレビが置かれている

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テレビより体験が重要

「テレビを見たくないなら、スイッチを入れなければ良い」

そう考えた人がいるなら、まさに正論だ。

だけど人間の行動というものは、そう簡単なロジックでは決まらない。

これが、自分ひとりだけの話ならまだ良い。

だけど、たとえば4人連れでホテルに泊まったとする。 その中の1人が、テレビが大好きな人だったとする。

そうすれば、必ず「とりあえず、テレビのスイッチを入れておこう」という行動を取るだろう。
ひとりがテレビのスイッチを入れれば、自動的に4人の注意がテレビに向いてしまうことになる。

テレビが付いていて、なおかつそれを無視し続けられる人は、なかなかいない。
そうすると、全員分の体験が変わってしまうことになる。

宿泊も体験

テレビを付けるか付けないかなんて、些細な問題だと思うだろうか。
僕はそうは考えない。

たとえば旅行をしたら、ホテルに泊まるのだって、旅行という体験のひとつだと考える。

僕らはなんのために旅行をして、なんのために「体験」をしにいくんだろうか。
それは決して、テレビを見て過ごすためではないはずだ。

テレビは体験を汚すツール

ちょっと例えを変えてみよう。

たとえば、

  • パレードの横で、バラエティ番組が放映されているディズニーランド
  • 山頂で犯罪のニュースが流れている富士山
  • 野球の試合が放映されているスターバックス

あなたは果たして、そんな場所に行きたいと思うだろうか? 僕は行きたくない。

テレビの有無が行動を変える

逆に、客室にテレビが存在しなければ、人はどういう行動を取るようになるだろうか。

  • 夜は、お互いの話に注意を向けながら、語り合う
  • ホテルにあるカフェやバーに出かけてみる
  • 早く寝て、次の朝は早く起きて、外を歩く

「テレビがない空白」によって、別の行動を取るようになる可能性は高い。

テレビは要らない

体験を大事にする人にとっては、ホテルにテレビは要らない。
観光業界は、客室からテレビを撲滅する運動を始めるべきではないかと思う。

今の時代、たとえテレビがなくても、各自がスマホをいじり始めたら、同じかもしれない。
だけどテレビは「常に部屋を専有して、注意力を奪い続けるツール」なので、その破壊力が高いと思う。

全てのホテルからテレビをなくせ。