TwitterでもYouTubeでもブログでも、自分は読者にして、自分を楽しめるのが最強のアウトプットだ。我が子のようなツイートにいいねが1個もつかなくても、著者の自分だけはその子の味方でしょ。愛情を持って育てよう。現在未来過去、自己承認欲求を脱出しよう。

自分に向けて自分で発信する。それが面白くて仕方ない状態が、最強だと思っている。

アウトプットや発信と言うと、ついつい、誰が読んでいるか、誰から良い子がつく日などにすぐ施行が99%とらわれてしまって、それが発信が続かない1番大きな理由じゃないだろうか。 https://t.co/5Ehh7lfccG

だけど忘れてはいけないのは、初期衝動、原始的な欲求、1番最初のときめき感だ。例えばTwitterで言えば、自分のツイートは自分自身ではない。自分の子供とか、大事に育てている植物とか、そーゆー理解をできたなら、たとえいいねが1個もつかなくても、笑っていることができる。

なぜなら、いいねがつかなかったのは自分自身ではなくて、単に自分自身が発信したツイート、鳥、ツイバードであって、

少なくとも自分がその子を眺めているからだ。水をあげることだってできるだろう。餌をあげることも。

だからTwitterには、自分のツイートにもいいねをつけられるようにできてるじゃないか。これは自分が生み出した和歌子に、愛情を与えられるような感覚。そのために自分への、自分のツイートへのイイネは可能なのだ。

僕も3ヶ月ぐらいYouTubeで、配信を続けて、すべてのトータルで200時間ぐらい再生されたけれど、1回もアクセスされない動画もたくさんあった。むしろそれがほとんどかも。

だけどいつの間にかアクセス数が欲しいとか、もっと再生されたいとか、そーゆー思考に頭がとらわれてしまっていることに気づいたときは、

原始的欲求、初期衝動を思い出す。

いつの間にか自分は、YouTubeの撮影がただ単に楽しい、面白くて仕方ないと言うピュアな欲求から、自己承認欲求やアクセスすると言う、汚れた世界に降りてきてしまったのを見つけて、下の気持ち、楽しみの肉体的感覚、身体的感覚に立ち戻るのだ

そのために大事なのが、ツイートやYouTubeでの発信やブログなど、いいねがつくととても嬉しいのだけれど、そこに自分自身を投影させてしまっていることに気づいたら、

いやいや違う、これは我が子たちだと振り返るなり。

実際に、TwitterであってもブログやYouTubeであっても、それを配信した瞬間にというか、YouTubeであれば撮影した瞬間に、自分から発せられたものは保存されるけれども、それはもう一瞬過去の出来事であり、自分自身と言うフレームからは外れているのだ。

ただ単に、その過去のツイートやYouTubeの動画を、自分自身だと思い込む脳の残影が響いているだけだ。これは社会的動物である人間にとって、とても強力な働きなので、

気づかない人は一生気づかないかもしれない。

たとえ1秒前のツイートであっても、0.1秒前のツイートであっても、それはすでに自分自身ではなく、自分自身が発した過去の履歴に過ぎない。タコのツイートを自分自身が見るとき、自分の頭の中で、自分と言う枠組みが再生成されるように見えるだけだ。観察力が鋭い人なら分かるかも。

そして自分の過去を振り返るとき、その過去は固定されておらず、加工振り返るたびに自分が過去の自分に対して評価を下したりして、そこで過去は再発生することになる。

そう、過去とは存在するものではなく、実は僕らの空想の中にしか存在しないのだ。究極的なところ。実は。知っていたかい。嘘だと思うなら、過去と言うものをどこかから引っ張り出してきて、僕の目の前にポンと置いて欲しい。そうしたら信じるから。

TwitterでもYouTubeでもブログでも、自分は読者にして、自分を楽しめるのが最強のアウトプットだ。我が子のようなツイートにいいねが1個もつかなくても、著者の自分だけはその子の味方でしょ。愛情を持って育てよう。現在未来過去、自己承認欲求を脱出しよう。

https://t.co/FYauc85bDU image


https://twitter.com/yumainaura

https://github.com/YumaInaura/YumaInaura/issues