下書き。人間の脳はアプリケーションだ。Twitter、ブログ、そして僕らと言うソフトウェア、これらが平等に関係している。風呂上がりのアイディアを、不完全なアプリケーションや、不完全な文章に落とし込むことは難しい。そもそも僕らは脳に対しての、インターフェイスと言う現実的問題に立ち向かう。 ストリーミング。 すべてのアプリケーションは人間の脳に対して不完全だ。 何から話し始めたらいいものか。さっき風呂に入って、いろいろなことを考えていた。着想をまとめようとしたが、どうにもまとまりがつかない。 思考がぐ

人間の脳はアプリケーションだ。Twitter、ブログ、そして僕らと言うソフトウェア、これらが平等に関係している。風呂上がりのアイディアを、不完全なアプリケーションや、不完全な文章に落とし込むことは難しい。そもそも僕らは脳に対しての、インターフェイスと言う現実的問題に立ち向かう。

 


ストリーミング。

 


すべてのアプリケーションは人間の脳に対して不完全だ。

 


何から話し始めたらいいものか。さっき風呂に入って、いろいろなことを考えていた。着想をまとめようとしたが、どうにもまとまりがつかない。

 


思考がぐるっと回っては、拡散したり、新しいものを生み出したりする。Twitterのようにつぶつぶになったツイートが、脳の中でたくさん展開される。

 


これは僕が最近感じていた課題。とても大事なことを話したい。アプリケーションは人間の、脳や、現実世界の複雑さに対して、常に圧倒的に不完全である。

 


この前提に立って、アプリケーションと言うものを考えたい。

 


Twitterはかなり人間の脳の自然的な構造を反映できるツールだと思う。例えば1つのツイートから1つのものを着想する。それがまた新しいツイートになる。そして、そのツイートは、リプライや引用リツイートで、自然的に丘のツイートと連結することができる。脳の神経細胞同士がつながるが如く。

 


そのつながり方にもいろいろなスタイルがあって、1つはリプライであり、1つは引用リツイートであり、1つは公式リツイートであり、ツイート同士はつながることもできるし、つながらないことをあえて選ぶこともできる。

 


Twitterで公式リツイートをした後に、それに対してシステム的につながらないコメントをしている人人を見かけることがあるだろう。あれは脳細胞同士が、つながりを拒んだ例だ。強いつながりではなく、ごくごく弱い気づくか気づかないかレベルの、つながりを選んだケースだと言えるだろう。

 


そして、話は1つ戻る。シャワーを浴びながら思いつくようなアイデアを、どうやって、どんなアプリケーションに落とし込もうか。人間の脳の働きはとても高速で、とても複雑なので、それをフラットなアプリケーション、文字や文章に落とし込もうとした時点で、ものすごく不自然なものになってしまう。

 


そもそも、文章と言うフラットなインターフェイスが、そもそも人間の自然的な思考のつながりとは異なる。本屋文章がそもそも、フラットで、不自然すぎるインターフェースだ。このことを僕らは、あまり意識していない。本屋文章と言うのは僕らがあまりに慣れ親しんだインターフェイスなので、この不自然さを思い知ることがなかなかできない。

 


Twitterのような脳の構造に近いアプリケーションは、本よりも少しだけ進歩しているかもしれない。だけど完全ではない。僕らが古い時代から受け継いできた平面的なインターフェイスと言うものが幅をきかせているので、僕らはブログなど、平面のインターフェイスにも、現実的な問題として立ち向かわなければいけない。

 


本当ならばネットサーフィンと言うのは、人間のごく自然的な行動を表している。本よりもネットサーフィンのほうがずっと自然だ。最近の人は本を読むこらえ性がなくなってきていると言うような話をするけれど、そもそも本を読むという行為さえ不自然なことなのであるから、ネットサーフィンのように、次々と自分の興味関心がモンキーマインドで移り変わる事は、僕らがずっと忘れていた位だ原始時代の注意力のあたらかせ型に近いのかもしれない。現代でも実は人間の脳はそのように発送から発送へのジャンプを繰り返しているのだけれど、これはマインドフルネスの技術を使うなどして自分の思考に対して敏感にならなければ、なかなか察知するのは難しいだろう。

 


何が言いたいかと言うと、多くの、本当に多くの問題が絡んでいると思う。例えば今ストリームのように、iPhoneのメモのアプリに音声入力でただひたすらに文章を入力しているけれど、このように、発想が次々とスイッチしていくのがわかるだろう。

 


僕らはブログを書いたり、何か文章書いたりするときに、テーマを絞ったり、トピックをまとめたりするけれど、それを完全に分断することなどできない。僕らが付けているカテゴリや、まとめや、トピックの分類の仕方等と言うものは、そもそもが不自然なもので、不自然に現実世界から切り取られたものでしかない。頭の発想の世界から平面的なインターフェイスに落とし込んだ自然な、なおかつ、文字や文章といったそもそもが無理のあるインターフェイスを利用して、不自然なアプリケーションに、脳の発想を落とし込む行為、これには相当無理をしていると言えるだろう。だから僕らが1つのアプリケーションを使ってテキストを入力すると言う事は、実は恐るべき高度なことをしているのだ。

 


なので常に、アプリケーションを利用する時、現実な問題に直面してしまうと言う事は、どうしてもやむを得ない。Twitterを利用するか、ブログを利用するかと言う選択肢を1つ考えてみても、あまりにも無数の考え方やバリエーションがありすぎて、これをこれだと言うふうにルールを決めることなど到底不可能なように思えてくる。

 


それだけ僕らは複雑な現実世界、脳の世界、そしてアプリケーションの世界に生きているわけだ。

 


僕は何が話したかったのだろうか。そう、人間自身もアプリケーションであると言う話がしたかった。今風呂上がりの時間をしばらくすぎて、僕と言うアプリケーションの熱は、だんだんと下がり始めてきている。そして語りたかったことが、だんだんと語れなくなってくる。今もTwitterをちょっとだけ除いては、1つのツイートをした。風呂上りも15分も経てば、だんだんと眠くなる。

 


この1つのトピックだけれど、いくつの複雑な現実的問題が絡んでいることか。このトピックから、100個ぐらいは新しいトピックを語れそうな気がする。

 


最後に1つだけ。最近物事の学習で、自分自身をOSに例える例がたくさんある。アプリケーションに例える例がたくさんある。自分のOSをアップデートしろとか、そういうことが言われる。

 


この言葉もだんだんとインフルされてきた感じはある。またその表現か。だんだんと新鮮味がなくなってきた。今この表現を使っている人がいたら、僕は古臭さを感じてしまうな。

 


それはともかく、現実的問題として、自分自身の上、自分自身をアプリケーションの1つだと考えているだろうか。現実世界に存在するアプリケーションだ。

 


そこに思考と言うアプリケーションというか、モジュールがあり、そしてそれが肉体と言うデバイスと関係しており、その肉体がiPhoneを持って、Twitterやブログと言うアプリケーションを使っている。アプリケーションやデバイス同士の相互作用。

 


僕らは人間がアプリケーションを使っていると思うけれど、アプリケーションは人間の脳や体の外部的な拡張であると言うことを考えると、それらが平等にアプリケーションの1つずつであると考える事は、とても自然なことなのではないだろうか。

 


そろそろ時間切れのようだ。また次の風呂上がりのアイディアタイムにでも、続きを考えて、現実世界の理解、そして僕らアプリケーションへの理解を進めることにしよう。

 


また話すね。