はじめての「ワールドカフェ」に行ってきた
ワールドカフェというのは、絵を描きながら、カフェのような落ち着いた場所で話し合うという、以前からある手法らしい。
そこで初対面同士、席に四人ずつ座って「テーマのあるフリートーク」をした。
ガチガチにテーマを決めるのじゃなくて、もっとゆるい感じ。
そして何か思いついたことがあれば、席に置かれた「ひとつながりの大きな紙」に、マジックで絵や文字を描いていく。
こうやって発想を広げながら、会話をつなげていくのだ。
(1回の席替えあり)
」
ステージ1. 否定
残念ながら、ひとつのテーブルで僕が感じたのは「否定」だった。
その時のテーマは「こんな時代が来ると良いね」というようなものだった。
僕は「エネルギー管理」について話そうとした。
たとえば、ある日は仕事で疲れ果てるけれど、ある日はエネルギーの高まりを感じる。
でも、その理由は、自分では明確には分からないことがある。
人体の不思議というか、なんというか、隠されたルールが存在するように感じる。
なので科学を味方にして「iPhoneで手軽に自分のエネルギー状態を計測できる時代がやってくると良いな」と思った。
だけど僕がこの発想について(ごく断片的にだけど)話すと、
他の三人からは「自分の感覚で分からない?」「気の持ちようだよ」「運動すれば解決するよ」という反応を、それぞれ受け取った。
つまり僕の話に対して「否定」「否定」「否定」が繰り返されたことになる。
(少なくとも「話をよく聞く」「話を理解する」「同意する OR 共感する」というプロセスは、全ておこなわれなかった)
話を始めて15秒ぐらいの段階で「否定」のリアクションが素早く返ってきたので、
僕は自分が描いた絵に、「却下」と書き加えた。
こう書くと「否定されたと感じるのは、気にしすぎなんじゃないか」とか、
「話し方が悪かったんじゃないか」という風に思われるかもしれない。
あるいはそうかもしれないし、あるいはそうじゃないかもしれない。
しかし僕の場合は「会話のロジック」にとても敏感なので、否定された時も、同意された時も、わりとそれを察知してしまうのだ。
僕はマインドフルネスのトレーニングを積んでいるが
こういう体験は「社会的な自分」を小さく揺るがす。
ちょっと喉に小骨が刺さったときのような感じがした。
ステージ2. 共感
もうひとつのテーブルで感じたのは「共感」だった。
テーマは「今の日本から無くなって欲しくないものは?」というテーマだった。
「生命の安全」「食の安全」
「お祭りは無くなって欲しくない」
「無くなって困るものには、普段は気付いておらず、無くなってから初めて気付く」
「通天閣が突然無くなったりしていたら、かなりビックリするだろうな。普段は10年に1度も行かないけど」
「そういえば、有名なケーキ屋が、跡取りがいない問題で、閉店したらしい」
「そうか、文化を守るには後継者や、守る人が必要だ」
というように、お互いがお互いの話に共通性を見つけ、絵を描きながらそれぞれをつなぐ。
「共感」を目指した話し合いをしていたように思う。
絵を描きながら話していると、それは脳のシナプスのような模様を描く。
それぞれの脳細胞がうまく結合できるかどうか。
お互いの会話同士が「アクセス地点」を持てたかどうかが、白紙に映し出されていくようだ。
ステージ3. まとめ
席が変わり、話す相手が変わるだけで、これほどまでに「共感」と「否定」がスイッチする。
このギャップを短時間に感じたのは、はじめての経験だった。
これだけだと、最初の席の人に対しての悪口になってしまうかもしれない。
だけど印象に残ったのは、主催者の人の言葉だ。
「共感を感じたかもしれない」
「話が噛み合わなかったかもしれない」
「それぞれの印象があると思う」
というようなことを話されていた。
そこで思ったのは、自分が否定や共感や、そのギャップを感じることまでを全て含めて、
この場所の存在意義があるんだということだ。