小説を読むということ
小説を読むと、確実に自分の心に影響があるということを知った。
例えばふだん、頭の中でつぶやく思考のスタイルが、少しだけ変わる。
とめどなく頭の中に流れてくるセリフが、やや小説口調になる。
頭の中の言葉が変われば、世界の捉え方も少し変わる。
ふだん、自分が当たり前だと思っている、自分というものの認識にくさびが入れられる。
小説を読んで、少しも自分の思考に影響を受けないということは難しい。
スタンダードな現実と小説の現実
たとえば、こう考えてみる。
たとえば世界の観方というものが10000種類あるとしたら、
僕らが普段見ているのは、その中の1種類に過ぎない。
スタンダードな現実。
社会的な現実。
そのレールの上にいることで、僕らは意思疎通することが出来る。
だけど、あくまでそれはレールにすぎない。
小説は役に立つか立たないか
「小説を読んで何になるの?」
「現実の役に立たないじゃん」
と思うのは、それは1種類の現実だけの話だ。
小説はそもそも「別のタイプの現実」の存在を知らせてくれるわけだから、
僕らのスタンダードな現実の尺度で推し量ることは、まったく出来るはずがない。
世界Aの貨幣は、世界Bでは使えないのだ。
逆もまた然り。
小説を読むという体験を
非常に優れたものだと感じる。
文字情報を認識して、抽象的な理解をするという、人間の脳の高度な働きを目の当たりにする。
たった500円ほどで、ここまで上質の体験をもたらしてくれるものは、他にはなかなかない。
僕らに必要なのは少しのお金と、あとは集中力だけだ。
こんなに小説が素晴らしいものであっても、やがていつか、忘れ去られる作品もあり、太陽も燃え尽きて、この地球も消えて、紙も燃えてしまうのだな。
なんてことを考えたりする。
一生ですべての小説を読むことも出来ないし、仮に出来たとしても、すべてを二冊ずつ読むのは難しいだろう。
小説を読むということは
人間にとって一体なんなのだろう。
その定義がまず、難しい。
小説が僕に訴えかけてくるメッセージは、こうだ。
「定義するな!」