音楽と本と休日 〜「ボブ・ディランは何を歌ってきたのか」〜
ブックカフェには
ディランの本が並んでいた。
その中から1冊を手に取り
今日は、こいつを読んで過ごした。
音楽の本を読むのは、すごく久しぶりだ。
ちなみに僕はボブ・ディランをアルバムを2枚聴いたぐらいで、まったく詳しくない。
ただ漠然としたイメージを抱いているだけだ。
不遇の存在
音楽関係の単行本というのは、不遇の存在だと思う。
音楽や文化、そしてアーティストへの愛が詰め込まれ、よく構成され、文筆業の技術が凝縮されているにも関わらず、「ヒット本」というのはまず存在しない。
実際に音楽を聴く人の1/100も、1/10000も、音楽関係の本を読む人は存在しないんじゃないだろうか。
人と「何のアーティストが好き?」という話をすることはあっても、 「あの音楽の本読んだ?」と話題に出ることはまずない。
なにせ、音楽と文字情報はそもそも、わりと相性が悪い。
そして多くの本はKindle化もされず、やがて記憶の彼方に消えていってしまう。
音楽と文章
果たして本質的に、文章は音楽を語れるのだろうか。
いや語れない。
ただ音楽の「周辺」を語るのみだ。
だが逆に、音楽を聴くだけでは、決して見えてこない世界もある。
だから、音楽関係の本を書く人は、よくこの音楽という捉えどころのないものから、一冊の本にするだけの文字情報を書き起こせるなと尊敬する。
伝説を楽しむ
音楽を聴くことと、音楽の本を読むのも、まったく別の体験だと思う。
だから今日僕は、自分がボブ・ディランをよく知らないことを前提に、この本を読む時間を楽しんだ。
- アーティストをよく知っている人が本を読む
- アーティストをよく知らない人が本を読む
当たり前ながら、この二つは全く違う経験になるだろう。
だけど決して、どちらの体験が優れているというわけではないと思うのだ。
そして、いちどボブ・ディランを知ってしまったら、もう「ボブ・ディランを知らないまま想像する」という楽しみは決して出来なくなってしまう。
遠く伝説の彼方にいるアーティストを、そのぼんやりとした伝説の中に置いたままで、想像力に水を与えてみる。 音楽関係の本には、そんな楽しみ方もある。
追記
そして家に帰って、AppleMusicでディランのアルバムを聴いてみる。
イマジネーションを広げた後で実際にその音楽を聴いてみる。それもまた一興だ。