そしてクチャラーは気付かない ( 聴覚情報の地位の低さ )
午後。静かなカフェ。 左端の席に、クチャラーが座った。
僕から彼までの距離は2メートルはある。
だが彼の咀嚼音は、僕の左耳に聞こえるぐらいに響き渡っている。
カフェはこんなに静かで素敵なのに。 いや、静かであるからこそ、クチャラーの音はこの場所を支配している。
店内のBGMよりも目立つ。
何の環境音だ。
自分の作業に集中している間は気にならないが、ふと一息つくと、クチャラーの音が耳を刺激する。
僕が最も苦手とするタイプの刺激だ。
(しかし、何故彼はカフェでガムを噛んでいるんだ?)
注意できない
彼に注意する方法は、恐らく存在しないだろう。
今までの経験上、クチャラーといふものは自分の出す音に、完全に無意識である。完全に、だ。
逆説的に、自分の出す音にこれほどまで無意識であるからこそ、今までクチャラーとしての寿命を永らえてきたのだと言える。
もし仮に彼が人生の途中で、自分の咀嚼音を矯正できていたのであれば、今ここで我々の前にクチャラーとして現れることはなかっただろう。
視覚情報の地位の高さ
視覚情報に限っては、我々は非常に気を遣っている。
街中で裸で歩く人は見かけないし、皆それぞれに、ある程度「人が不快にならない格好」を心がけているように思う。
今いるこのカフェだって、皆それぞれに、身ぎれいな格好をしている。
該当のクチャラーだって、フォーマルなスーツを着こなしている。
禁煙と喫煙
たとえばの話。
昔とは違い「空気」は価値であると認識されるようになった。
このために、禁煙エリアと喫煙エリアは明確に分けられるようになった。
喜ばしいことだ。
聴覚情報の地位の低さ
だが聴覚情報は違う。
これはまだ「価値」だとみなされていない。
我々はこんなにも音楽好きな民族だ。
であるに関わらず、日常の音に対しては、すごく鈍感であるように思える。
音空間の価値
- 咀嚼音を立てながら食事をする
- 5秒に1回は咳払いをする
- ノイズの入り混じった声で笑う (自分でもひどい表現だと思うが)
このような事柄は、音空間の価値を著しく落とす侵害行為として、社会的に認識されてほしい。
音空間も「価値」であると理解されるようになってほしい。
そんな世界が来たら素敵なのに。
反省
僕自身も仕事で外付けキーボードを使っていた時、タイピングに夢中になりすぎて、周りに音を撒き散らしていたことがある。
(静音タイプの製品を使っていたので、きっと大丈夫だと思いこんでいた)
本当にごめんなさい。
といま改めて反省した。(ものすごい罪悪感だ)
このように人は「自分の出している音」に対してはごく無自覚なものである。
追記
ところで「周り音が嫌なら、イヤホンをつければ良いじゃないか」という提案は愚問だ。 (誰からも提案されちゃいないけれど)
なぜならイヤホンを付ければ、音空間上において、自分はその場所の体験と切り離されてしまう。 不快な音を遮断できる代わりに、体験という黄金をも手放すことになる。
これは100円を拾って、1万円を捨てるようなものだ。
たとえばカフェで言えば、店が流している環境音楽や、周りの人のコップを置く音や、ちょっとした話し声。
これらは全て、それが度を越したものでない限りは、カフェで過ごすという経験の一部分なのだ。
なんとも贅沢な話ではある。