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Yuma Inaura 稲浦悠馬 | とりとめもないこと

愛すべき Mac Book Air に捧ぐ

クリエイティブって何だろう

天才のクリエイティビティ

「クリエイティブ」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、どんなものだろう。 たとえば次のようなものじゃないだろうか。

クリエイティブという言葉には「ごく一部の天才の所有物」という響きがある。

ピュアな存在のクリエイティビティ

もしくは

  • 子どもが描いた落書き
  • 象が描いた絵(そういうのがあるんだよ)

といったものかもしれない。

子どもや動物など、ピュアな存在にはクリエイティビティが宿っている、とそう考えるかもしれない。 だけど大人が同じことをやったら、それはクリエイティブじゃないんだろうか?

大人のクリエイティビティ

例えば大人が、

  • 紙に簡単な絵を描く
  • 携帯で写真を撮るととき、一番良いレイアウトを考える
  • メールの文章を考える時、ほんのわずかなユーモアを潜ませてみる
  • 料理をつくる時、クックパッドに書かれてない手順を取る

こういったものは、クリエイティブじゃないんだろうか? 僕はクリエイティブだと思う。

クリエイティブはごく限られた一部の人間のものではなく、どこにでも存在するものだ。 ただ僕らがそれに気づいていないだけで。

別に人に褒められるような、偉大な作品を描くのだけが、クリエイティビティではない。

狭い意味でのクリエイティブ、広い意味でのクリエイティブ

狭い意味でのクリエイティビティとは、今まで誰も思いつかなかったような形で、世の中にコンテンツを提供することだ。

広い意味でのクリエイティビティとは、今まで「自分」が思いつかなかったような発想を、日常でのアクションに反映させてみることだ。

それが大きいにしろ小さいにしろ、何らかのアイディアが脳に生まれた時に、それを封じ込めずに、何らかの形で描いたり、伝えたりしてみることだ。

世界には数十億人もの人間がいるのだから、それが「人類にとって、全く新しい発想」である可能性は、極限に小さいだろう。 だけどそんなことは関係ない。広い意味でのクリエイティビティとは、世界に評価されるためではなく、日常をほんの少しだけ楽しいものにするためにある。

だから、そもそも作品という形さえ取らないようなクリエイティビティで、世界は溢れているんじゃないだろうか。

僕はそう考える。

ところで

今朝は窓から、焼け付くような日差しが挿し込んでいた。 これを写真に収めたいと思った。

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だけど、こういう朝陽の写真はもう何度も撮った。 僕はこの焼け付く感じを記録したいと思って、手をかざしてみることにした。

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太陽に手をかざすなんて、おそらく世界中で、ずっと昔から使い古されてきたレイアウトのはずだ。

だけど僕自身は、いままで思いつかなかった。 そして「僕自身がこのレイアウトで写真を撮った」というのは、今までで初めてのアクションだったのだ。 (いや、もしかしたら昔にも同じような写真を撮ったかもしれないが、それは問題ではない)

ここでいうクリエイティビティとは、コンテンツの新規性ではない。 ひとりの人間のコンテキストにおける、アクションの新規性だ。

否定

だがここで 「これがクリエイティビティだって? 笑わせるな」という心の声が聞こえてくる。

そう、僕たちのピュアなクリエイティビティは「クリエイティビティの評価に値するか、否か」という心の声によって、死に絶えてしまいがちだ。

だがしかし「クリエイティビティ」と「評価」は本質的に異なる。 僕は、世間に向けて「クリエイティブでしょう?」と問いかけることなしに、ひそかに心の中で、クリエイティブってやつを楽しもうと思っている。