僕は希薄な人間関係が好きだ | 100倍に薄めたコーヒーの話
たとえばコーヒーを100倍に薄めて飲むことを想像してみてほしい。
そのコーヒーは恐らく、まるで水と見分けがつかない。 だけど1%だけは、コーヒーの成分が含まれている。
これは果たしてコーヒーと言えるのだろうか?
- 1%の濃度のコーヒーはコーヒーなのか。
- 50%の濃度からがコーヒーなのか。
- まったく薄めずに飲むのがコーヒーなのか。
- もしくはエスプレッソだけが本物のコーヒーなのか。
どこからどこまでがコーヒーなのだろう。
人間関係
話は変わる。 僕らはどこからどこの範囲までを「人間関係」と認識しているだろう。
- 家族
- 恋人
- 親友
- 友達
- 知人
- 職場の人
- 近所の人
- 公園でたまに挨拶をする人 (ジョギングとか犬の散歩とかで)
- 店の店員さん
- 宅配便の人
- 通勤電車で毎日同じになる人
- 本屋で肩がぶつかり「すいません」と1秒だけ声を交わした人
- 街行く全くの他人
どこまでを「人間関係」と認識しているだろうか?
僕は最近「街をゆく、まったくの他人」でも、人間関係の一部だというような感覚を持っている。 コーヒーで言うなら、1/100の濃度の関係だ。
街に人が歩いている。 それが自分の視界に入る。 表情や雰囲気だって感じられる。 靴音も耳に入ってくる。
カフェやファストフードに入れば、雑然とした雰囲気の中に身を置くことになる。 話の内容を意識することはないが、たまに、あるものは単語として耳に飛び込んでくる。
とりたてて意識こそしないものの、僕たちは「話しかけない他の人」同士であっても、視覚情報で、聴覚情報で、お互いに影響を与えあっている。 (人がひとりもいないカフェと、人がいるカフェでは、随分と居心地は変わってくるだろう)
人とのつながり
「人とのつながり」というものを語る時、僕らは明確で、濃厚な関係を想像しがちだ。
顔と顔を突き合わせて、酒を飲み、なんでも本音で語ることのできる、いざとなれば助け合う、生涯を共にする友人、というような。
あるいは、たとえ街ゆく人でも気さくに話しかけ、心を開き合い、ためらいなく言葉を交わす、というような。 (そういう人はごくたまに見かけるけれど)
- 「希薄な人間関係」は悪くて「濃厚な人間関係」は良い。
- 現代人に失われた、皆が求めてやまない関係性とは、濃厚な人間関係だ。
このような文脈で語られることが多いように思う。
けれどもし、人と人同士のつながりが重要なのだとしたら、何故、街行く他人には「つながり」を感じないのだろう。 なぜそれは最初から「つながりの対象外」なのだろうか。
個人的な感じ方
重要なのは、自分が「人とのつながり」を、どういった形で感じるかということだ。
- 家族との団らんで
- 親友との飲みの席で
- インターネット越しに
- 本を読みながら歴史に思いを馳せて
「パーティーでの孤独」という言葉がある。 誰と過ごしていても、飲みの席でも、カフェでも、家族とでも、友人でも、心がつながりを感じればそれはつながりであるし、そうでなければそうでない。
「人とのつながり」というものは、人間の本能的な感覚であって、理屈で証明されるものではない Aという場所で、Bという人と、Xという行動を取ったからといって、必ず感じられるというものではないのだ。
人はひとりでは生きられない、社会的な生き物であり、「人つながっている感覚」はとても重要だ。
だけどそれを感じるために、別に世間一般の固定観念に従わなくても良いのだ。 僕たちは「人とのつながり」をテンプレートに押し込めてしまいがちだが、実はどこにでも「つながり」を感じられる場所はあって、僕らがそれを取りこぼしているのだと、僕は考える。
だから、僕は希薄な人間関係が好きだ。 なぜなら街ゆく人にも、カフェで隣り合った言葉をかわさない人にも、100分の1のつながりを感じているから。
僕は勝手に彼らのことを、100分の1の友人だと考えている。