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Yuma Inaura 稲浦悠馬 | とりとめもないこと

愛すべき Mac Book Air に捧ぐ

「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮」 感想

映画

休日の夕方、初のミニシアターに鑑賞に行った。ひとり映画だ。

目的は「ミニシアターで休日を過ごすという体験」をしたかっただけなので、席についた瞬間に、目的は果たされている。 なのでもう帰っても良かったのだけど、せっかく1800円払ったし、せっかくなので本編も見ていくことにした。

1時間ちょっとの間、ゆっくり洋画の雰囲気にひたろうと思ったが、まさかの吹替版。 (ミニシアターとか洒落てるし、ぜったい字幕版だと思うじゃん)

お客さんは全席の1割ぐらい。 途中、左の席の人が寝息を立てているような気がした。 (「映画館には寝るために来る」っていう趣味の人かもしれない。きっとそうだ)

結果としては、すごく面白かった。 ドラマではなくドキュメンタリー。美術ドキュメンタリーだ。 初心者にも分りやすい、親切な映画だった。

僕自身は年に1回ほどは美術館に足を運んだりするが、特別詳しいわけではない。

ダ・ヴィンチは「人体から建設を見る」「建設から人体を見る」という部分が画期的だったらしい。 確かにそういう目でデッサンを見ると、明らかに「人体が建設物として描かれている」ように見えた。

しかし、人間の知性の本質を感じさせるような、なんていう精巧なデッサンなんだろう。

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ダヴィンチというと一般には、ものすごい天才というイメージだが、あらゆることに手を出しすぎて、悪くいうと「全てが中途半端」だと言える部分もあったらしい。

ドキュメントでは「ダ・ヴィンチは時代(?)を進歩させようとしていた」と語られていたけど、本当かなあ。 「世の中を良くしよう」という気持ちなんか持っていたんだろうか。 ただ面白いこと、自分の興味のあることを突き詰めただけじゃないだろうかという感想だ。 (もしかしたら、進歩的な思想の持ち主だったんだろうか)

弟子たち

興味深かったのは「ダ・ヴィンチの弟子たち」の部分で、画風はダヴィンチに似ているのだが、なんというか、どこか違うというか、迫力は感じられなかった。 これは「ダ・ヴィンチの弟子の作品だ」と紹介されたことでの先入観によるものなのか、それとも質が明らかに違うのか、そのどちらかは分からないが「何か違う」という感覚だった。「迫ってくるもの」がないのだ。

だがその中でも目立ったのが、弟子の一人「サライ」の作品だ。 なんというか「心から人を馬鹿にしている人が描いた作品」という印象を受けた。 少なくとも、何かしらの狂気を感じた。

世間から今でも汚名を着せられているとおり「絶対こいつ、悪いやつだろう」っていう。 この印象は「ドキュメンタリーで紹介された先入観」から来たものではないはずだ。

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最後の晩餐

最後にキリストの「最後の晩餐」の話が出てきた。ユダの裏切り。 この絵の中で「誰がユダか」ということも初めて知った。

だが、この描き方にはとても納得がいった。 キリストが「この中に、裏切り者がいる」(という意味のこと)を言う。その瞬間をとらえた作品。 裏切り者はひそかに大勢の中に紛れている。ものすごく目立つわけではない。ひっそりと潜んでいる。

もうひとり印象的だったのは「フィリポ」だ。 フィリポは裏切り者ではないのだが「もしかして、自分のことだろうか?」と自問しているように見える。 それがドキュメンタリーの音声で解説される前に、フィリポの動作自体から「まさに、自問しているようだ」ということが感じられた。 これはすごい絵だと思った。

「最後の晩餐」には、神話に対して想像力を働かさせる力があると思った。

ところで書籍「サピエンス全史」によると「物語が人類を動かしている」と説かれる。

思えばキリスト教というのは、信じられないほど説得力の高い、壮大な物語を描いているのだなと思った。 日本人の僕でさえ、「キリストの時代には、何か、ものすごいことが起こっていた」と想像できるのだから。

神話の力はすごい。