JBL のblue toothステレオ「Authentics L8」を買った
6万円。
何度もヨドバシカメラに試聴しに行って、遂に注文した。
ヨドバシカメラの騒音の中で聴くのと、静かな家の中で聴くのとでは、かなり印象が違う。
すごく音の主張が強い気がした。
ベース音も強すぎて、音がぼやけているように感じる。
アプリから音のバランスを調整して、低音を低めにしたら良い感じになった。
最初の日は、どうにも音が際立ちすぎて、バックグラウンドミュージックには向かないかなと思って悩んだ。
ちゃんと耳を傾けて聴くのに向いているというか。
「良い音」「悪い音」というとは別に、音の「主張の強さ」というものがあるのだと、はじめて理解した。
だけど3日も経つと耳が慣れてきて「こいつじゃなくちゃ、音楽を聴きたくない」ぐらいの感覚になってきた。
オーディオ機器がエイジングするというのは嘘で、耳のほうがエイジングするのだと思う。
ところでリモコンは付いていない。
「スマホにつなげて使うんだから、スマホがリモコンでしょ?」っていう思い切りの良さを感じた。
ただiPhone側の音量設定がすごく荒いというか、適切なボリュームにするのが難しいので、iPhoneに音量微調整のアプリを入れた。
ヨガスタジオ「スタジオヨギー」に体験に行ってみた
お会計
レッスンが終わった時にお会計を請求されて、「えっ」ってなった。
体験申し込みをした時は、お金がかかるようなイメージはなかった。
「あ、体験のつもりで来たんです」
「無料の体験というのはやっていないんですよ」
店を出た後、改めてウェブサイトを見返してみると「体験でもお金がかかる」ということが、非常に分かりにくい表示になっていた。
これは経営戦略だ。
申し込みページなどでは、実際にお金がかかることは分からないよう、曖昧な表示にしておく。
そしてレッスンが終わった時に、
「えっ、お金かかるんだ」
「今回だけで1回3000円? 嘘でしょ」
「でも3回使える体験チケットは4500円で買えるんだ」
「それなら4500円の方にしてみよう」
「チケットも買ったことだし、3回ぐらい通ってみようかな」
こうやってなし崩し的にスタジオに通い始める、ある意味モチベーターとして動くシステム。
こういう必要悪なんだ、きっと。
しかし消費税を入れるとほぼ5000円。
「だまされた」と、後からじわじわ来るダメージと、
スターバックスでいうと10回分ほどのお金が、月初に飛んで行ったのは痛い。
(まあ、月末に飛んで行っても同じように痛いんだろうけど)
スマホの家計簿に5000円と記入するのが辛かった。
いつでもお金のことで辛いのは、自分が納得のいかない使い方をしてしまった時だ。
なので午後の2時間ほどは、そのことが頭をぐるぐると回っていた。
(レッスン開始ギリギリに行ったので、事前説明を受けられなかったというのもあるかもしれない。ごめんなさい。。)
レッスンについて
ところで肝心のヨガのクラスはというと、辛さもあり、学ぶこともあった。
チェーン店なので期待はしていなかったのだけど、ヨガを教える先生は「体の使い方」について、含蓄深いことをおっしゃっていた。
「ヨガをした後、強くなった体で、再び座ってみる」
「ヨガは心地良いことだと体に教えていく」
というようなことをおっしゃってた。
約90分のレッスンが終わる頃には、日頃は感じにくい爽快さを感じていた。
ただ、グループレッスンでは仕方ないことだと思うけど、なかなか難しい面もある。
それは、みんな、一斉に同じリズムで体を動かさなければいけない。
なので、どうしてもヨガというよりは、体操に近いものになってしまうんじゃないだろうか。
ヨガの醍醐味はたぶん
「自分のリズムで体を動かして、体の神秘を味わう」って感じだと思うのだけど。
グループレッスンだとそれがどうしてもやりにくい。
ひとりで自分のリズムで、ゆっくり心地よい部分なんか探していたら「え、あの人何?」って感じで、確実に浮いてしまうだろう。
こうやってレッスンで習ったポーズを、部屋でひとりでも出来るようになったら、面白いんだろうなと思った。
この5000円のもとを取るにはどうしたら良いか、と考えていたりする。
(実際には何かのキャンペーン中で税込み4000円ぐらいだった)
その後
気になっていた本が置かれていて、内容を確認できたことで500円ぐらい浮いた、と考えてみることにした。
(こんな行動を取っている時点で、まったく悟りなんか開けていないのだが)
全然関係ないけど、この世の中にはもっと高額なサービスもたくさんあるんだ、と思って、自分を慰めることにした。
特別優待券は人にも譲れるみたいなので、
これで1000円ぐらい浮くと思うことにした。
(タダであげるにしても、友人が得をするということは、自分が得をするということだ)
TOSHIと洗脳と空と雲
その昔、もう20年前ぐらいだろうか。
X-JAPAN の TOSHI が洗脳を受けていると話題になっていた時、
本人がバラエティ番組でこんなことを話していた。
「たとえば空にはソラという名前が付いているけど、僕たちがそれにソラっていう名前を付けて呼んでいるだけで、本当はなんでもないもの、なんだかよく分からないものじゃないですか」
というようなことを。
この話を聞いて、ぽかーんとする司会者やコメンテーターたち。
(番組のエフェクトで全員の頭の上に「はてなマーク」が付与されていた)
だけど僕はこの話が、ある程度腑に落ちた。
「ソラ」というのはあくまでも人間が付けた名前。
そこに「クモ」があって「アメ」が降ったりする。
だけどその全ては、人間が都合の良いように、その「機能」に対してラベリングをしただけのものだ。
だから、もし言葉というラベルをすべて外してしまったら、
きっと空に対しても、雲に対しても、今までとは全く違う見方になるはずだ。
というよりも、たぶん空や雲という区切りさえも曖昧になるか、消滅してしまうことだろう。
このTOSHIの言葉が、元は誰の思想かは知らないけれど、物事の本質を突いていると思う。
(いや「物事でないもの」の本質とでも言おうか)
だけど、この話を聞いてぽかーんとするということは、
僕らの多くは本当に「人が付けた名前」とか「人間が物事に与えた役割」の世界に生きているんだなと思った。
「名前付けが存在しない世界」なんて、思い出すのさえ一苦労だろう。
ところで、洗脳騒動よりも前に発売された「碧い宇宙の旅人」は本当に癒される良いアルバムなので、ぜひ聴いてみてほしい。
音楽は恋愛に似ている
音楽を聴くのは恋愛に似ている。
世の中には無数の音楽が存在するけれど、いちどに聴ける曲、いちどに愛せるの曲ただひとつだけ。
ひとつの曲を聴きながら「他の音楽を聴きたい」なんて空想にとらわても、目の前の音を愛することは出来ない。
全ての音が浅く聞こえてしまうだろう。
仮にいま聴いているものが、その時に最高の音楽ではないと思えても。
「世界中には、もっと今の自分にふさわしい音楽が存在する」ということが、仮に、理論的には実証できるにしても、いま目の前にある音楽を聴くことは美しい。
最近では音楽の「アルバム」という概念が希薄だ。
だけど、たとえば昔ながらの1枚のアルバムの中には、色々なナンバーがある。
最初から最後まで通して聴いていると、途中には面白くない曲もあるかもしれない。
だけどそこで再生を止めたり、スキップしたりしない。
嫌いな部分が見えてきても、理解してみよう、まずは受け止めようという努力をしてみる。
そうすれば、好きになれる部分があるかもしれない。
あとは、距離感の問題がある。
目の前にある音楽にはまりこむのではなく、逆に無関心になるのではなく、お互いの間に適度な距離を見つけたい。
なぜなら、音楽と自分とをつないでいるのは「関係性」だから。
良い距離感を見つけられた時は、音楽と自分の関係性が、ぐんと良くなったような感じがする。
愛する人と接するように、音楽を聴く。
これが音楽を聴く時のコツだと僕は思っている。
イヤホンで音楽を聴かなくなった
必要がない時は、無音で過ごすようになった。
音楽は素晴らしい。
今までに人類が生み出した中でも、ほとんど救国に近いもの。
だけど音楽を1日中流し続けていても、それがずっと、心にも流れてくるわけじゃない。
多くの場合は、無感覚。
むしろ音楽を流し続ければ流し続けるだけ、何も感じられないようになってくる。
バックグラウンドミュージックとして、おそらく気分の8.2%ほどを変えてくれるだけ。
そこには人生が、日常が、音楽とシンクロするような感覚は無い。
垂れ流されているだけの、ただの音。
最近は、音楽は家で聴く。
スピーカーの前にじっと座って、音楽が自分に与えてくれるものを、全て受け取ろうとする。
たとえば、愛する人が発する言葉を、全て聞き逃さずに受け取ろうとするように。
音楽はあまりにも当たり前のものになりすぎて、こんな聴き方はずっとしていなかった。
今日聴いていたのは、布袋寅泰のRock'n'Rollカバー。
知らない曲が流れてきて、タイトルを見ると「LOVE IS THE DRUG」。
口笛を拭いた。
(正確には僕は口笛が吹かないので、口笛を吹いたかのような声を出した)
小学生の頃、準不登校扱いになった時の話
小学生の頃。
母が、いつもにはない、ややきつめの口調で、学校をさぼりがちな自分を諌めたことがあった。
自分では意識していなかったのだが、その時期は「お腹が痛い」と言って休む日が多く
学校では「準不登校」のような扱いになっていたらしい。
ストーブで体温計を温めたりしてまで、風邪を装っていたことを覚えている。
だが、母のたったひとことで、数秒のうちに、学校を休みたいという気持ちは、まるで消えてしまった。一瞬の芸当だった。
(正確になんと言われたのかは忘れてしまったが)
その時期、自分が学校をサボりがちだったのは、別に心理的理由とか、何か重大な理由があったわけではなくて、
単に「学校に行かないほうが楽だから、サボりたい」という、単にそれが慢性化しただけのものだと思う。
単純に、人間は怠惰に流されやすいものである。
大人になった今でも「会社は自由に休んで良いよ」と言われれば、休みがちになるかもしれない。少なくとも毎日定時に出勤できる自信はない。
いかに働くことが素晴らしくても、脳はもし許されれば、極力、エネルギーを省力化しようとするものだ。
なので学校に行く強制力、会社に行く強制力というものは、ある意味、ありがたいものだと思う。
自分の意志に関わらず早起きが出来て、勉強や仕事が出来て、大人ならばお給料がもらえる仕組みになっているのだから。
音楽と愛について 〜布袋寅泰の SUPER SONIG GENERATION を聴きながら〜
もう20年も前に発売されたアルバムだ。
再生機器が変わったせいだろうか。耳が肥えたせいだろうか。
昔に聴いた時よりも、音の粒がより鮮明に聴こえる。
2017年8月26日。
まさに今日、この瞬間に、このアルバムを聴いている人間は、世界中でたぶん自分一人だろうな、なんて考えながら、1曲目から最後の曲までを再生する。
音楽が愛されるということは、こういうことなんじゃないだろうか。
今、流行っているわけではない。
決してメジャーなわけでもない音楽を、楽しんで、味わう。
その音楽と一緒に、1日の時間のうち、何十分かを過ごす。
こういった体験は、布袋寅泰本人には、まず伝わりようもない。
こうやってブログに書かれる例でさえも、あくまで稀な例だ。
世界中で、絶えず音楽というものは聴かれ続けているけれど、そのほとんどの「体験」は、文章化にされたりせず、形は残されない。
ただ僕らの人生の中を、クオリアのようなものとして通り過ぎていく。
ファンレターが送られたり、Amazonのレビューに書き込まれたりするものは、ほんのごく一部だ。
つまり音楽を聴くという体験の99%以上は、形としては残らない。
逆に言うと、このように秘密裏におこなわれる「体験」は、あわせれば膨大な数にのぼるし、
たとえば他の人には見つからなくても、世界の片隅で、音楽が愛される時間は存在することになる。
音楽を愛するということは。