ブックカフェで相席する方法 ( LUCUA 1100 梅田 蔦屋書店 より )
ブックカフェで本を読んでいる。
すると、右の席で、奇妙なことがおこなわれていた。
ひとりのおじさんが、ひとりの男に、
「ここよろしいですか?」と訪ねて、目の前に座る。
だが男は、何も答えない。
そのままおじさんは、男の向かいの席に座った。
「世の中には、勇気のある人もいるんだな」と思っていた。
そしておじさんはやがて、席を立った。
だがその30分後、また別の女性が
「ここ、よろしいですか?」と、男に話しかけた。
男はまた、なにひとつ答えない。
目の前の人に、視線さえ合わせない。
なんなのだろうこれは?
なぜ右の席の男に、かわるがわる人が訪れて、相席をしていくのだろうか。
しかも、お互いは知り合いでもなく、男は拒絶をするでもなく、ただ沈黙によって相席を受け入れ、そして、人が入れ替わってゆくのだ。
(僕が見る限り、全部で3人分の相席を、右側の男は受け入れた)
これは何か重大なことが、裏側でおこなわれているような気がした。
もしかしたらネットで相席を募集して、
「ブックカフェで相席してみるイベント」でもおこなわれているのかもしれない。
だけど仮にそういうイベントであれば、男が沈黙しているのは奇妙だ。
「あ、田中さんですか?」「あ、はい、へへへ」みたいな、てへっとした挨拶のひとでもあっても良さそうなものだ。
もしかしたら店の公式サービスとして
「相席申込書」のようなものがあるのかもしれない。
いや、それはないだろうけれど。
もしかしたらこの小説が立ち並ぶブックカフェで、まるで小説チックな取引が、秘密裏におこなわれているのかもしれない。
誰もスーツケースは持っていなかったけれど。
なぜ、右側の男だけなんだ。
右側の男だけに相席の相手が訪れ、そして去ってゆくのだろう。
そうして、さらに数時間も経ったころ、
「ここよろしいですか?」という声が、またまた聞こえた。
だがそれは、右側の男に対してではなく、この僕に対してのものだった。
「ここよろしいですか?」の流れがあまりに綺麗すぎて、
僕は思わず「はい、よろしいですよ」と言って、PCやら本やらを広げてあった、テーブルのスペースすら空けた。
そして今相席をしながら、本を読んだり、こうしてブログを書いていたりする。
( ところで人の足に肖像権はあるのだろうか )
このブックカフェでは「相席力」の高い常連さんがいて、
流れるような動作で「居心地の良い席」を確保しているのかもしれない。
ちなみに、まったく嫌な経験ではなかった。
一瞬だけ見知らぬ人と話すというのも、良いものだ。
( 今度来たらあの右の、一番相席されやすそうな席に座ってみようか )
小説を読むということ
小説を読むと、確実に自分の心に影響があるということを知った。
例えばふだん、頭の中でつぶやく思考のスタイルが、少しだけ変わる。
とめどなく頭の中に流れてくるセリフが、やや小説口調になる。
頭の中の言葉が変われば、世界の捉え方も少し変わる。
ふだん、自分が当たり前だと思っている、自分というものの認識にくさびが入れられる。
小説を読んで、少しも自分の思考に影響を受けないということは難しい。
スタンダードな現実と小説の現実
たとえば、こう考えてみる。
たとえば世界の観方というものが10000種類あるとしたら、
僕らが普段見ているのは、その中の1種類に過ぎない。
スタンダードな現実。
社会的な現実。
そのレールの上にいることで、僕らは意思疎通することが出来る。
だけど、あくまでそれはレールにすぎない。
小説は役に立つか立たないか
「小説を読んで何になるの?」
「現実の役に立たないじゃん」
と思うのは、それは1種類の現実だけの話だ。
小説はそもそも「別のタイプの現実」の存在を知らせてくれるわけだから、
僕らのスタンダードな現実の尺度で推し量ることは、まったく出来るはずがない。
世界Aの貨幣は、世界Bでは使えないのだ。
逆もまた然り。
小説を読むという体験を
非常に優れたものだと感じる。
文字情報を認識して、抽象的な理解をするという、人間の脳の高度な働きを目の当たりにする。
たった500円ほどで、ここまで上質の体験をもたらしてくれるものは、他にはなかなかない。
僕らに必要なのは少しのお金と、あとは集中力だけだ。
こんなに小説が素晴らしいものであっても、やがていつか、忘れ去られる作品もあり、太陽も燃え尽きて、この地球も消えて、紙も燃えてしまうのだな。
なんてことを考えたりする。
一生ですべての小説を読むことも出来ないし、仮に出来たとしても、すべてを二冊ずつ読むのは難しいだろう。
小説を読むということは
人間にとって一体なんなのだろう。
その定義がまず、難しい。
小説が僕に訴えかけてくるメッセージは、こうだ。
「定義するな!」
時間を忘れて生きられますか?
ちょっと難しいけれど。
あまり、時計なんかは見ずに生きれば良い。
一番大事なのは、心の中で時間を思い出さないこと。
たとえば休日にどこかの店、本を読んで過ごしている。
「あと何分、この店にいられるだろう?」
「どのぐらい経ったら、次の場所に行こう?」
そんな思いが心に現れるたび、目の前の、本のページに意識を戻す。
物語の世界に帰る。
そしていつの間にか時間が経って、
コーヒーを5杯も頼んだりして、
「お客さん、閉店ですよ」と告げられて、はっとする。
そんな過ごし方が、時間を忘れる生き方。
そんな風に、いつの間にか夜が来てしまっても、時間を無駄にしてしまったとは思わない。
なぜなら、時間自体を忘れているから。
ところで僕らというものは、あまりに時間というにものに慣らされているから、
時間がない世界を思い出すのは、普通ではなかなか難しい。
だけど時間を忘れた世界というのは、きっと、いちどもシャワーというものを浴びたことのない人が、はじめてシャワーを浴びたり。
そういうことに似ていると思う。
騎士団長殺し 読了 2017.06.13
美味い食事を食べ終わる時が切ないように、
面白い物語を読み終わる時も切ない。
あと一口食べたくなるし、あと1ページ読みたくなる。
小説はいくら摂取してもカロリーにならないのが良い。
約1ヶ月ほど、ブックカフェに通い続けて読み終えた。
( 本代は払ってないけれど、お茶代はたくさん払った。そのあたりの勘定は、コーヒー店と本屋でいい塩梅にやってほしい )
紙の本と電子書籍の一番の違いは
「手に持って、あとどれぐらいのページが残っているのか、重さで分かるか分からないか」かもしれない。
何かが起きているようで、何も起きていない、でも何かが起きているような物語。
サスペンスでもない、ミステリーでもない、謎解きがあるようでない、こんなに掴みどころのない小説がベストセラーになるのは、なんて素晴らしいんだろう。
解説サイトや、他の人の感想は読まずに過ごしたい。
それとも誘惑に負けて、この小説を読んだ体験を濁してみようか。
この小説について文章で語れるほど、僕には語彙がない。
だけどたぶん、脳は文章の隙間から、物語のニュアンスを感じていた。
言葉にならない部分が一番美味しい。
それが小説というものかもしれない。
糖質制限 | ケンタッキーの CHIZZA プルコギ味 ( カロリー 851kca / 炭水化物 32.9g ) を食べた
感想
糖質制限中なので、ピザを半年は食べてなかった。
だけどケンタッキーのこいつは「ピザを食べている気分」にさせてくれた。
本当に美味かった。
栄養情報
カロリー 851kcal
タンパク質 68.6g ( ! )
脂質 49.4g
炭水化物 32.9g
1000kcalぐらいあるかと思ったけど、予想よりちょっと低かった。
これだけボリュームがあって、炭水化物も低めなので、糖質制限中でも問題ない。
( [170530栄養成分表、アレルゲン情報(KFC).xls](https://www.kfc.co.jp/menu/pdf/OR_nutritional_20170530.pdf) )
開けるのがワクワクする箱
ピザといえば辛いソース
ホットソースも注文した。ぬかりない。
で、どーん!
プルコギが 溢れんばかりに入っている
4枚のうち2枚にホットソースをかけてみる
ごちそうさまでした
発売期間が終わる前にあと1枚は食べたい。
全てのホテルからテレビをなくせ
なぜホテルには、テレビが置かれているんだろうか。
それは、退屈を紛らわせるようにだろう。
だけどビジネスホテルならいざ知らず、レジャーホテルにも必ずテレビが置かれている。
「体験」を大事にしているはずの、ディズニーの公式ホテルにさえテレビがある。
これって馬鹿らしいと、誰も考えないんだろうか。
僕らは「ホテルにはテレビがあって当たり前」という常識に縛られているんじゃないだろうか。
例
綺麗な調度品ばかりのホテルにも
なぜかテレビが置かれている
テレビより体験が重要
「テレビを見たくないなら、スイッチを入れなければ良い」
そう考えた人がいるなら、まさに正論だ。
だけど人間の行動というものは、そう簡単なロジックでは決まらない。
これが、自分ひとりだけの話ならまだ良い。
だけど、たとえば4人連れでホテルに泊まったとする。 その中の1人が、テレビが大好きな人だったとする。
そうすれば、必ず「とりあえず、テレビのスイッチを入れておこう」という行動を取るだろう。
ひとりがテレビのスイッチを入れれば、自動的に4人の注意がテレビに向いてしまうことになる。
テレビが付いていて、なおかつそれを無視し続けられる人は、なかなかいない。
そうすると、全員分の体験が変わってしまうことになる。
宿泊も体験
テレビを付けるか付けないかなんて、些細な問題だと思うだろうか。
僕はそうは考えない。
たとえば旅行をしたら、ホテルに泊まるのだって、旅行という体験のひとつだと考える。
僕らはなんのために旅行をして、なんのために「体験」をしにいくんだろうか。
それは決して、テレビを見て過ごすためではないはずだ。
テレビは体験を汚すツール
ちょっと例えを変えてみよう。
たとえば、
あなたは果たして、そんな場所に行きたいと思うだろうか? 僕は行きたくない。
テレビの有無が行動を変える
逆に、客室にテレビが存在しなければ、人はどういう行動を取るようになるだろうか。
- 夜は、お互いの話に注意を向けながら、語り合う
- ホテルにあるカフェやバーに出かけてみる
- 早く寝て、次の朝は早く起きて、外を歩く
「テレビがない空白」によって、別の行動を取るようになる可能性は高い。
テレビは要らない
体験を大事にする人にとっては、ホテルにテレビは要らない。
観光業界は、客室からテレビを撲滅する運動を始めるべきではないかと思う。
今の時代、たとえテレビがなくても、各自がスマホをいじり始めたら、同じかもしれない。
だけどテレビは「常に部屋を専有して、注意力を奪い続けるツール」なので、その破壊力が高いと思う。
全てのホテルからテレビをなくせ。
美食とは何か | 志摩地中海村 「地中海レストラン RIAS」 の思い出
坂の下、海のふもとに
その店はあった。
夕陽が照りつける席だった
ポールスターも3倍美味く感じられる。
田舎者はこんな風に、写真を撮りながら料理を味わった。
メニュー
前菜
オードブル
スープ
海のメインディッシュ
陸のメインディッシュ
デザート
味わう技術
料理を「味わうこと」には、実は技術が要求される。
たとえば、クラシック音楽の鑑賞に技術が要求されるのと同じだ。
ヨーロッパの美食は「食べる側の、味わう技術」に対して挑戦してくる。
- 味わえば素晴らしい体験が出来る。
- 味わわなければ貧相な体験に終わる。
味わうという努力をして、はじめて真価を理解することが出来る。
メッセージのやり取り
ヨーロッパの美食の好きなところは、そこだ。
料理がこちらにメッセージを投げかけてくる。
こちらは、それを受け取るために感覚を研ぎ澄ませる。時にはこちらから問いかける。
そして「なるほど、そういうことか」と理解する。
- 料理と舌(ならびに他多くの感覚)とのコミュニケーション
- 料理人とお客さんとのコミュニケーション
が存在する。
料理と人間の関係
美食の世界では、料理と人間が、対等な関係にある。
- 「人間が料理を食べてやっている」
- 「料理が人間に提供されている」
という上下関係や慢心は、ここにはない。
食事は体験
僕はこの日「これこそ食事というものだ」と思った。
今までの人生で、最も体験的な食事だったと思う。
1秒ごとに作り出される情報を、どれだけ多くキャッチできるか。
どれだけ食事という時間を、体験的なものに出来るか。
解像度は高ければ高いほど良い。
と言ってもガチガチになって頑張るわけじゃない。 あくまでもリラックスしながら、優しく、だけど途切れなく、料理とのコミュニケーションを続けるのだ。
ストーリーの手順
- 皿に盛り付けられた最小限のソースと、組み合わせによって変わる味わい
- スパークリングワインの泡が登っていく光景
- グラスを持った時の手の冷たさ
- ナイフとフォークを使う手の動き
- 料理を取り分けて、目の近くまで持ってくる時の
- 目を楽しませた後で、最適なタイミングで口に運ぶ
- 口の中に料理を含みながら、
1秒も無駄にしたいと思う時間はない。
これらの順序の全てが、食事というストーリーであり、体験なのだ。
ところで写真には「体験」まで封じ込めることが出来ない。
こればかりは、自分で味わってみるしかない。
後半
だが後半になると、やや注意力が落ちてくる。 舌が味わうことを諦めようとしてくる。
だが、そこで投げやりにならず、最後の最後まで繊細に味わいながら、食事を終える。
それがきっと、料理を味わうということだ。
周りの環境
そして周りの環境は、食事という体験をさらに解像度が高く、質の高いものにしてくれる。
- レストランの外観、内観、目に見えるもの
- ちょうど良い音量で流れる音楽
- 景色、窓から差し込んでくる光
- スタッフの人のはからい
- 料理が出されるタイミング
このレストランでは「食事という体験」を重視してくれているなと感じた。
ごちそうさまでした。
帰り道
料理長の太田裕さん
ならびにスタッフの方々。
(直接はお話していませんが) ありがとうございました。
( 公式サイトより )
追記 - コース料理の良さ
コース料理の良さとは何か。
それは集中力を目の前の一皿に注ぎ込めるということだ。
僕らの目の前には、常に一皿しか存在しない。
だから、その一皿を愛することだけを考えれば良い。
たとえばすべての料理が、いちどに目の前に並べられたとしよう。
すると人間は、それを味わいながら食べることなど出来ない。
注意力は散漫になり、きっとコース料理を食べるときよりも、2倍以上のスピードで、1/2以下の集中力で平らげてしまうことだろう。
提供の方法によって、人間の行動は変わり、料理の味わい方も変わる。
フルコース料理は人間の集中力を最大限に引き出す提供方法だ。