僕は長期志向でゲームをする
「ゲームの遊び方には人の性格が現れる」というのは僕の持論だ。
投資志向のプレイ
自分のゲームのやり方は、投資志向に分類されると思う。
たとえば、タワーディフェンスで遊んでる時には、まずは「もらえるポイントのアップグレード」に、真っ先にポイントを使うタイプだ。
つまり、前半の成長は遅くても、後半の成長を重視する。
投資志向であり、長期志向であると思う。
仕事でも
これが自分の場合、仕事のやり方にもあらわれていると思う。
学習に即効性を求めるのではなくて、1年2年経った時に、じわじわ効いてくるような、ベーシックな勉強が好きだ。 遠回りしても良いから、より汎用的な学習をしたいと思う。
むしろ、手っ取り早い成長が嫌いだ。
むしろ、あえて遠回りをしたいぐらいの気持ちだ。
たとえばプログラミングだと
「英語の勉強」には即効性がない。 たとえば早くプログラムを組みたいなら、日本語のドキュメントをバリバリ読んだほうが手っ取り早い。
だけど僕は、この2年間ほど、なるべく英語のドキュメントを読む機会を増やすように試みていた。
その効果がいま、少しずつではあるが、あらわれてきた気がする。
英語のドキュメントを読んで「へー!」とか「ほー!」とか、感動できるようになってきたのだ。
ちなみに、プログラミング周りの英語は単語数も限られていて、わりと簡単なものだ。
だが、以前より英語に親しみを覚えられるようになったのは、単純に嬉しい。(カードの幅も広がった)
働き方でも
短期間にものすごい力を出して、一気に消耗するのは良くないと思っている。 コンディションを一定以上のクオリティに保ちながら、毎日、平然とした顔をして仕事をし続けたいと思う。
その方が長期における貢献度のトータルは大きくなるはずだと考えている。
長期志向と短期志向、どちらが良い?
どちらが良いかは決まっていないはずだ。
世の中には、短期でものすごい学習成果を上げる人もいるだろう。
だけど人と比較するのではなく、あくまでも僕という個人において、長期志向の行動は「はまってきている」感じがする。
まとめ
特にこの話には結論がない。
僕は長期志向のやり方が好きで、とても気に入っているという話だ。
「カフェテリア」と書かれた提灯
すごいインパクトだ。
人に親切にすると幸福になりやすいらしい
今まで科学がどれだけ発達しても、どれだけ文明が発達しても、おそらく人間の幸福度は上昇しなかった。
人類は人口70億という地球上での繁殖には成功したが、個体それぞれを見ると成功を成し遂げているとは言い難い。
しかし最近では、幸福は統計学的に研究され始め、その原則がほんの少しではあるが、明らかとなってきているようだ。
幸福の条件
書籍『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』によると、人間は次の3つの要素によって、幸福感を得やすいようだ。
- 1 人との交わり
- 2 親切
- 3 ここにいること
個人的な感想
- 人との交わり
- どちらかというと内向的なので苦手だ
- でもこの本を読んで、普段は断っていただろう集まりに行ったり、行動を変えてみた
- 親切
- 日頃から、人には親切にしたいと思っているが、毎日実践の機会があるかというと、全くそうではない
- ここにいること
- 1年ほど瞑想を実践を続けて、段々と上達してきている
親切を実践してみた
1. カフェで席を譲ってみた
グループで席を探している人たちがいたので「どうぞ」と言ってみた。
2. トイレのゴミを片付けてみた
誰も見てはいなかったけれど。
それは問題じゃないだろう。
3. クレジットカードのポイントが溜まっていたので、寄付に使ってみた
金額にして2000円程度。
4. 友人との待ち合わせで、ちょっとだけ分かりやすく地図を送ってみた
気持ち、いつもより親切に。
5. カフェで隣の人が物を落としたので、拾うチャンスをうかがってみた
結果は拾える角度じゃなかったけど、この本を読んだだけでも、気の持ちようって変わるもんだな。
ちなみに
一日一善じゃなくて一日五善ぐらいから目に見える効果が現れるとか、現れないとか。
思ったこと
人に親切にするというのは、ちょっとハードルが高くも感じられる。
だけど日常から「親切にできる機会はないだろうか」「誰か困っている人はいないだろうか」と心がけてみることは出来るんじゃないだろうか。
たとえ、全く見知らぬ他人に対してではなくても、
- 家族に親切にする
- 知人友達に親切にする
- 職場の人に親切にする
ということは、比較的簡単に出来そうな気がする。
情けは人のためならず
「親切が幸福につながる」という話の良いところは、これがモラルの問題じゃないところだ。
「モラル的に、人には親切にすべきだから、そうしよう」と思うより、ずっとモチベーションが湧く。
何と言っても、科学や統計のお墨付きがあるのだから。やってみようという気持ちになる。
「自分の幸福のために、人に親切にするだって?」
これをエゴイスティックだと考える人もいるかもしれないが、人には親切に出来て、自分も幸福になるならば、一石二鳥でなんとも美味しい話じゃないか。(失うものは何もない)
もし、世界が良くなるとしたら
今よりも多くの人が、今よりもほんの少しだけ、人に親切にする世界なんじゃないかなあ。
そうしたら、きっと良い世界になりそうな気がする。
他に気になっている本
人は「成功するから幸福になる」のではない。
「幸福だからこそ成功する」らしい。
つまり、まずは幸福になることが先決であり、最優先事項なのだ。
「そんな無茶な」と思うかもしれないが、最近、瞑想を実践している僕には、このことが実感としてよく理解できる気がする。
このシンプルな図
ものすごく衝撃的な気がするんだけど、あなたはどう感じるだろうか。
(「ハーバード流 幸せになる技術」より )
吉良吉影に休日の過ごし方を学ぶ
最近思うこと。
休日の過ごし方がうまくなった。
昔よりも、かなり。
昔は下手だった
「あれもしたい」「これもしたい」と思いを巡らしては、どれもこれも中途半端で、ただただ無為な時間を過ごしていた。
休日も終わりかけになると、自分の意志の弱さと、時間の儚さに悲しくなるばかりだった。
100のことを思い描いて心を踊らせたのに、実際に出来るのは1か2ぐらいのことだった。
「有意義」という文字を砂に書いて過ごした。
とにかくひとりでは何も出来なかった。
今年のゴールデンウィークの過ごし方
- 1日目 カフェで過ごした
- 2階席でブログを書いていた
- 2日目 カフェで過ごした
- 2階席でブログを書いていた
- 3日目 スターバックス MeRIZE 店で過ごそうとするも、体調不良を起こす
- 帰宅して18時間ぐらい寝て過ごした
- 4日目 カフェで過ごした
- 2階席でプログラミングをしていた
- ボブ・ディランの本を読んだ
- 5日目 カフェ過ごした
- テラス席でプログラミングをしていた
- ボブ・ディランの別の本を読んだ
そんな5日間だった。
ちなみに全て同じ店。
知る人ぞ知る伝説のカフェ「スターバックス」だ。
この期間で、ホットドリップコーヒーのサイズはトールからグランデ、そしてヴェンティへと進化した。
上達の理由
経験に注意を向ける習慣
- 「あれをしたら有意義かも」
- 「これをしたら有意義かも」
という選択肢に、あまりとらわれなくなった。 それよりも、たとえどんな選択をしても、今の時間を味わうことを重視するようになった。
そうしたら、どんな時間を過ごしていても、だいたい楽しく過ごせるようになった。
街をぶらりと歩いていても、ちょっとした発見と出会うことが出来る。
たとえお金を全く使わなくても、映画館に行かなくても、街を歩いているだけで楽しむことが可能になった。
世界それ自体が、穏やかなエンターテインメントであることを発見した。
ノートブックを持ち歩くようになった
アウトプット作業は、インプット作業にはない恍惚感をもたらしてくれる。
キーボードに向かって入力を繰り返していると、あっという間に時間が過ぎてゆく。
カフェに出かけるようになった
カフェの多い街に引っ越して、よくカフェに行くようになった。
自分が静かな場所で、のんびりと過ごすのが好きだということが分かった。
ひとり遊びが上手になった
- 家にひとりでいると、ゆっくり出来るけれど、ひきこもり感がすごい
- 外で人と遊ぶと、開放的ではあるけれど、自分の好きなことをする時間がない
休日には、この永遠とも思えるジレンマに悩んでいたのだが「外出 + ひとり遊び」という第三の選択肢を覚えた。 今はこれのスタイルを存分に楽しんでいる。
あとは1日に30分でも15分でも、人と話す時間があれば良い。
ちなみに今まで人生で、ひとり遊びをしたことは全くなかった。 何回か試したことはあったけれど、どうやって遊んで良いかが分からず、途方に暮れるばかりだった。
時計を見る回数が減った
「今日があと何時間残っているか」を、あまり考えないようになった。
ただ今を過ごしているうちに時間が過ぎれば良いし、日が暮れれば良いと思うようになった。
休日の定義
今では休日は、何かを成し遂げるためにあるのではないと理解している。
たとえ何を成し遂げようと、成し遂げまいと、少しでも多くの「今の瞬間」を体験するためのものだと考えている。
それが仕事の勉強という発展的なものであろうと、街をぶらぶらするという非発展的なものであろうと、重要なのは、特定の時間を過ごしているという体験そのものなのだ。
理想の休日
もし「理想の休日」というものがあるならば、吉良吉影のこのセリフに、僕はものすごく共感を覚える。
そしてもっとも重要なのは
このすてきな青空を眺めることであり
移動する景色をゆっくりと楽しむことなのだ
それ以上に重要なことがこの世にあるのか?
(「死刑執行中脱獄進行中」より)
いや、ない。
今日は街でたんぽぽを見つけた
あまりに久しぶりに見かけたので、この植物の名前を思い出すのに30秒ぐらいかかった。
そんな暖かな、ゴールデンウィーク最後の日の午後だった。
音楽と本と休日 〜「ボブ・ディランは何を歌ってきたのか」〜
ブックカフェには
ディランの本が並んでいた。
その中から1冊を手に取り
今日は、こいつを読んで過ごした。
音楽の本を読むのは、すごく久しぶりだ。
ちなみに僕はボブ・ディランをアルバムを2枚聴いたぐらいで、まったく詳しくない。
ただ漠然としたイメージを抱いているだけだ。
不遇の存在
音楽関係の単行本というのは、不遇の存在だと思う。
音楽や文化、そしてアーティストへの愛が詰め込まれ、よく構成され、文筆業の技術が凝縮されているにも関わらず、「ヒット本」というのはまず存在しない。
実際に音楽を聴く人の1/100も、1/10000も、音楽関係の本を読む人は存在しないんじゃないだろうか。
人と「何のアーティストが好き?」という話をすることはあっても、 「あの音楽の本読んだ?」と話題に出ることはまずない。
なにせ、音楽と文字情報はそもそも、わりと相性が悪い。
そして多くの本はKindle化もされず、やがて記憶の彼方に消えていってしまう。
音楽と文章
果たして本質的に、文章は音楽を語れるのだろうか。
いや語れない。
ただ音楽の「周辺」を語るのみだ。
だが逆に、音楽を聴くだけでは、決して見えてこない世界もある。
だから、音楽関係の本を書く人は、よくこの音楽という捉えどころのないものから、一冊の本にするだけの文字情報を書き起こせるなと尊敬する。
伝説を楽しむ
音楽を聴くことと、音楽の本を読むのも、まったく別の体験だと思う。
だから今日僕は、自分がボブ・ディランをよく知らないことを前提に、この本を読む時間を楽しんだ。
- アーティストをよく知っている人が本を読む
- アーティストをよく知らない人が本を読む
当たり前ながら、この二つは全く違う経験になるだろう。
だけど決して、どちらの体験が優れているというわけではないと思うのだ。
そして、いちどボブ・ディランを知ってしまったら、もう「ボブ・ディランを知らないまま想像する」という楽しみは決して出来なくなってしまう。
遠く伝説の彼方にいるアーティストを、そのぼんやりとした伝説の中に置いたままで、想像力に水を与えてみる。 音楽関係の本には、そんな楽しみ方もある。
追記
そして家に帰って、AppleMusicでディランのアルバムを聴いてみる。
イマジネーションを広げた後で実際にその音楽を聴いてみる。それもまた一興だ。
今日見た夢 〜鉄パイプ人間と戦う〜
こんな鉄パイプの敵が無数に出てきた
それをこんな武器で
ぐっと刺して
ぐるんぐるんと廻して倒すのだ
金属 VS 金属だ。
(コンビニの廃墟に並んでいる武器セレクションの中から、「今日はこいつを使いたい! と言って興奮気味に手を取った)
いつの間にかこの武器の経験値がたまり
この武器の達人になっていた。
そして街を
この武器を使って、地面に足をつかず移動するのだった。
歌が美味い少女が道を歩いていた
どうやったら自分もあれだけ歌がうまくなれるのか? とたずねてみようかと思った。
また別の夢。これから宇宙に発信するロケットが、いったん海まで潜った。
「ヘルメットがない、呼吸が出来ない!」と訴えるおじさん
それに対して「星に着けば、呼吸する必要さえもないんじゃよ」と説得する別のおじさん。
だがしかし成層圏を超えるまでの間に
おじさん1は着いてこられず、
そのまま地球へと落ちていった
昔の知り合いが、僕の冷蔵庫を開きながら
「こんなに健康的な食事をするようになったんだね」と雑談したりしていた。
昔の彼女は同性愛に目覚めて
年上の彼女と手繋ぎながら電車に乗り込んで行った。
その年上の彼女は
ブログに「女の捕まえ方」みたいなことを書いてあるプレイガールだった。
けっこう悔しいと思いながら「男に取られるよりは良いか」みたいなことを考えていた。