人に親切にすると幸福になりやすいらしい
今まで科学がどれだけ発達しても、どれだけ文明が発達しても、おそらく人間の幸福度は上昇しなかった。
人類は人口70億という地球上での繁殖には成功したが、個体それぞれを見ると成功を成し遂げているとは言い難い。
しかし最近では、幸福は統計学的に研究され始め、その原則がほんの少しではあるが、明らかとなってきているようだ。
幸福の条件
書籍『「幸せ」について知っておきたい5つのこと』によると、人間は次の3つの要素によって、幸福感を得やすいようだ。
- 1 人との交わり
- 2 親切
- 3 ここにいること
個人的な感想
- 人との交わり
- どちらかというと内向的なので苦手だ
- でもこの本を読んで、普段は断っていただろう集まりに行ったり、行動を変えてみた
- 親切
- 日頃から、人には親切にしたいと思っているが、毎日実践の機会があるかというと、全くそうではない
- ここにいること
- 1年ほど瞑想を実践を続けて、段々と上達してきている
親切を実践してみた
1. カフェで席を譲ってみた
グループで席を探している人たちがいたので「どうぞ」と言ってみた。
2. トイレのゴミを片付けてみた
誰も見てはいなかったけれど。
それは問題じゃないだろう。
3. クレジットカードのポイントが溜まっていたので、寄付に使ってみた
金額にして2000円程度。
4. 友人との待ち合わせで、ちょっとだけ分かりやすく地図を送ってみた
気持ち、いつもより親切に。
5. カフェで隣の人が物を落としたので、拾うチャンスをうかがってみた
結果は拾える角度じゃなかったけど、この本を読んだだけでも、気の持ちようって変わるもんだな。
ちなみに
一日一善じゃなくて一日五善ぐらいから目に見える効果が現れるとか、現れないとか。
思ったこと
人に親切にするというのは、ちょっとハードルが高くも感じられる。
だけど日常から「親切にできる機会はないだろうか」「誰か困っている人はいないだろうか」と心がけてみることは出来るんじゃないだろうか。
たとえ、全く見知らぬ他人に対してではなくても、
- 家族に親切にする
- 知人友達に親切にする
- 職場の人に親切にする
ということは、比較的簡単に出来そうな気がする。
情けは人のためならず
「親切が幸福につながる」という話の良いところは、これがモラルの問題じゃないところだ。
「モラル的に、人には親切にすべきだから、そうしよう」と思うより、ずっとモチベーションが湧く。
何と言っても、科学や統計のお墨付きがあるのだから。やってみようという気持ちになる。
「自分の幸福のために、人に親切にするだって?」
これをエゴイスティックだと考える人もいるかもしれないが、人には親切に出来て、自分も幸福になるならば、一石二鳥でなんとも美味しい話じゃないか。(失うものは何もない)
もし、世界が良くなるとしたら
今よりも多くの人が、今よりもほんの少しだけ、人に親切にする世界なんじゃないかなあ。
そうしたら、きっと良い世界になりそうな気がする。
他に気になっている本
人は「成功するから幸福になる」のではない。
「幸福だからこそ成功する」らしい。
つまり、まずは幸福になることが先決であり、最優先事項なのだ。
「そんな無茶な」と思うかもしれないが、最近、瞑想を実践している僕には、このことが実感としてよく理解できる気がする。
このシンプルな図
ものすごく衝撃的な気がするんだけど、あなたはどう感じるだろうか。
(「ハーバード流 幸せになる技術」より )
吉良吉影に休日の過ごし方を学ぶ
最近思うこと。
休日の過ごし方がうまくなった。
昔よりも、かなり。
昔は下手だった
「あれもしたい」「これもしたい」と思いを巡らしては、どれもこれも中途半端で、ただただ無為な時間を過ごしていた。
休日も終わりかけになると、自分の意志の弱さと、時間の儚さに悲しくなるばかりだった。
100のことを思い描いて心を踊らせたのに、実際に出来るのは1か2ぐらいのことだった。
「有意義」という文字を砂に書いて過ごした。
とにかくひとりでは何も出来なかった。
今年のゴールデンウィークの過ごし方
- 1日目 カフェで過ごした
- 2階席でブログを書いていた
- 2日目 カフェで過ごした
- 2階席でブログを書いていた
- 3日目 スターバックス MeRIZE 店で過ごそうとするも、体調不良を起こす
- 帰宅して18時間ぐらい寝て過ごした
- 4日目 カフェで過ごした
- 2階席でプログラミングをしていた
- ボブ・ディランの本を読んだ
- 5日目 カフェ過ごした
- テラス席でプログラミングをしていた
- ボブ・ディランの別の本を読んだ
そんな5日間だった。
ちなみに全て同じ店。
知る人ぞ知る伝説のカフェ「スターバックス」だ。
この期間で、ホットドリップコーヒーのサイズはトールからグランデ、そしてヴェンティへと進化した。
上達の理由
経験に注意を向ける習慣
- 「あれをしたら有意義かも」
- 「これをしたら有意義かも」
という選択肢に、あまりとらわれなくなった。 それよりも、たとえどんな選択をしても、今の時間を味わうことを重視するようになった。
そうしたら、どんな時間を過ごしていても、だいたい楽しく過ごせるようになった。
街をぶらりと歩いていても、ちょっとした発見と出会うことが出来る。
たとえお金を全く使わなくても、映画館に行かなくても、街を歩いているだけで楽しむことが可能になった。
世界それ自体が、穏やかなエンターテインメントであることを発見した。
ノートブックを持ち歩くようになった
アウトプット作業は、インプット作業にはない恍惚感をもたらしてくれる。
キーボードに向かって入力を繰り返していると、あっという間に時間が過ぎてゆく。
カフェに出かけるようになった
カフェの多い街に引っ越して、よくカフェに行くようになった。
自分が静かな場所で、のんびりと過ごすのが好きだということが分かった。
ひとり遊びが上手になった
- 家にひとりでいると、ゆっくり出来るけれど、ひきこもり感がすごい
- 外で人と遊ぶと、開放的ではあるけれど、自分の好きなことをする時間がない
休日には、この永遠とも思えるジレンマに悩んでいたのだが「外出 + ひとり遊び」という第三の選択肢を覚えた。 今はこれのスタイルを存分に楽しんでいる。
あとは1日に30分でも15分でも、人と話す時間があれば良い。
ちなみに今まで人生で、ひとり遊びをしたことは全くなかった。 何回か試したことはあったけれど、どうやって遊んで良いかが分からず、途方に暮れるばかりだった。
時計を見る回数が減った
「今日があと何時間残っているか」を、あまり考えないようになった。
ただ今を過ごしているうちに時間が過ぎれば良いし、日が暮れれば良いと思うようになった。
休日の定義
今では休日は、何かを成し遂げるためにあるのではないと理解している。
たとえ何を成し遂げようと、成し遂げまいと、少しでも多くの「今の瞬間」を体験するためのものだと考えている。
それが仕事の勉強という発展的なものであろうと、街をぶらぶらするという非発展的なものであろうと、重要なのは、特定の時間を過ごしているという体験そのものなのだ。
理想の休日
もし「理想の休日」というものがあるならば、吉良吉影のこのセリフに、僕はものすごく共感を覚える。
そしてもっとも重要なのは
このすてきな青空を眺めることであり
移動する景色をゆっくりと楽しむことなのだ
それ以上に重要なことがこの世にあるのか?
(「死刑執行中脱獄進行中」より)
いや、ない。
今日は街でたんぽぽを見つけた
あまりに久しぶりに見かけたので、この植物の名前を思い出すのに30秒ぐらいかかった。
そんな暖かな、ゴールデンウィーク最後の日の午後だった。
音楽と本と休日 〜「ボブ・ディランは何を歌ってきたのか」〜
ブックカフェには
ディランの本が並んでいた。
その中から1冊を手に取り
今日は、こいつを読んで過ごした。
音楽の本を読むのは、すごく久しぶりだ。
ちなみに僕はボブ・ディランをアルバムを2枚聴いたぐらいで、まったく詳しくない。
ただ漠然としたイメージを抱いているだけだ。
不遇の存在
音楽関係の単行本というのは、不遇の存在だと思う。
音楽や文化、そしてアーティストへの愛が詰め込まれ、よく構成され、文筆業の技術が凝縮されているにも関わらず、「ヒット本」というのはまず存在しない。
実際に音楽を聴く人の1/100も、1/10000も、音楽関係の本を読む人は存在しないんじゃないだろうか。
人と「何のアーティストが好き?」という話をすることはあっても、 「あの音楽の本読んだ?」と話題に出ることはまずない。
なにせ、音楽と文字情報はそもそも、わりと相性が悪い。
そして多くの本はKindle化もされず、やがて記憶の彼方に消えていってしまう。
音楽と文章
果たして本質的に、文章は音楽を語れるのだろうか。
いや語れない。
ただ音楽の「周辺」を語るのみだ。
だが逆に、音楽を聴くだけでは、決して見えてこない世界もある。
だから、音楽関係の本を書く人は、よくこの音楽という捉えどころのないものから、一冊の本にするだけの文字情報を書き起こせるなと尊敬する。
伝説を楽しむ
音楽を聴くことと、音楽の本を読むのも、まったく別の体験だと思う。
だから今日僕は、自分がボブ・ディランをよく知らないことを前提に、この本を読む時間を楽しんだ。
- アーティストをよく知っている人が本を読む
- アーティストをよく知らない人が本を読む
当たり前ながら、この二つは全く違う経験になるだろう。
だけど決して、どちらの体験が優れているというわけではないと思うのだ。
そして、いちどボブ・ディランを知ってしまったら、もう「ボブ・ディランを知らないまま想像する」という楽しみは決して出来なくなってしまう。
遠く伝説の彼方にいるアーティストを、そのぼんやりとした伝説の中に置いたままで、想像力に水を与えてみる。 音楽関係の本には、そんな楽しみ方もある。
追記
そして家に帰って、AppleMusicでディランのアルバムを聴いてみる。
イマジネーションを広げた後で実際にその音楽を聴いてみる。それもまた一興だ。
今日見た夢 〜鉄パイプ人間と戦う〜
こんな鉄パイプの敵が無数に出てきた
それをこんな武器で
ぐっと刺して
ぐるんぐるんと廻して倒すのだ
金属 VS 金属だ。
(コンビニの廃墟に並んでいる武器セレクションの中から、「今日はこいつを使いたい! と言って興奮気味に手を取った)
いつの間にかこの武器の経験値がたまり
この武器の達人になっていた。
そして街を
この武器を使って、地面に足をつかず移動するのだった。
歌が美味い少女が道を歩いていた
どうやったら自分もあれだけ歌がうまくなれるのか? とたずねてみようかと思った。
また別の夢。これから宇宙に発信するロケットが、いったん海まで潜った。
「ヘルメットがない、呼吸が出来ない!」と訴えるおじさん
それに対して「星に着けば、呼吸する必要さえもないんじゃよ」と説得する別のおじさん。
だがしかし成層圏を超えるまでの間に
おじさん1は着いてこられず、
そのまま地球へと落ちていった
昔の知り合いが、僕の冷蔵庫を開きながら
「こんなに健康的な食事をするようになったんだね」と雑談したりしていた。
昔の彼女は同性愛に目覚めて
年上の彼女と手繋ぎながら電車に乗り込んで行った。
その年上の彼女は
ブログに「女の捕まえ方」みたいなことを書いてあるプレイガールだった。
けっこう悔しいと思いながら「男に取られるよりは良いか」みたいなことを考えていた。
何故せわしなさが嫌いなのか ( たとえば本屋で忙しく本を選ぶ人 )
- 本屋で、忙しく本を選んでいる人を見かける。
- カフェのレジで、忙しそうに注文をする人を見かける。
それも極端に、目立つほどに。
100人に1人ぐらいはこういった、周りよりも特別、落ち着きなく見える人がいるものだ。
それはどんな人?
言葉で表現するのはなかなか難しい。
彼ら、彼女らは別に、本当に急いでいるわけじゃないのだと思う。
本当に急いで本を買わなければいけなかったり、急いでコーヒーを飲まなければいけないわけではないはずなのだ。
ただ単に、すべての動作がせわしなく、落ち着きがないだけだ。
一冊の本を手に取り、舐め回すように、さっと帯を眺めては、棚に戻す。
そして小声で「これは違うわぁ」とつぶやいていたりする。
何かまるで、どこかに隠れた獲物を探しているような様子なのだ。
たとえるならば、バーゲンセールで最も安い商品を狙っているような。
違和感の理由
これは極端な例にしても、僕はこのような「落ち着きのない動作をする人」を見かけるたび「なにかイヤな感じがするなあ」と思っていた。
別に、自分の気分を害されるというわけじゃない。 ただなんとなく、違和感を覚えてしまうのだ。
だけど今まで、それが何故なのかは言葉にできずにいた。
気付いたこと
だが今日思ったことは、こうだ。
何かを忙しく選んでいる人。
彼ら彼女らにとって、その時間は「体験ではない」のだ。
- カフェのレジに並んで注文することは、体験ではない。
- コーヒーを手にとって、実際に飲むことだけが体験だ。
- もしかしたらコーヒーを飲むことさえも体験ではなくて、ただ口にカフェインを運ぶ行為かもしれない。
- 本屋で本を選ぶということは、体験ではない。
- 本を買って、その後に読むことだけが体験だ。
- もしかしたら本を読むことさえも、何かを達成するための手段であって、体験ではないかもしれない。
彼ら、彼女らはただ、結果を大事にしている。
プロセスというものの美しさを忘れてしまっている。
と、僕はそう感じているのかもしれない。
体験は楽しいもの
たとえばの話。
僕らは体験に対しては寛容だ。
- 2時間の映画は、2時間腰掛けてじっくり鑑賞する
- ディズニーランドに行ったら、アトラクションに乗る時間を楽しむ
- 待ち列を並ぶ時間も楽しめるかもしれない
- 遠くに旅行に行くときは、滞在時間を存分に楽しむ
- 計画を立てるのも楽しい体験だ
このように、僕らが体験だと気付いていることに関しては、僕らは急いだりはしない。
体験は楽しいから、
体験と非体験の境界線
だけど僕らの
- 「どこからどこまでが体験か」
- 「どこからどこまでが非体験か」
という境界には、個人によってかなりの違いがあるように思う。
たとえばカフェでレジに並んでいる時間も「カフェで過ごす」という体験だと感じる人もいるし、「コーヒーを注文するための消化時間だ」と感じる人もいる。
僕が極端にせわしない人を見る時に感じる「なんとなく嫌な感じ」は、この「体験だと認識している幅」の違いによるものなんじゃないだろうか。
体験を作るのは我々だ
「他人のことだから放っておけ」って?
それはごもっとも。
だがそもそも体験というのは、その場所にいる全員が作り上げているという部分がある。
実はカフェでも、最も雰囲気に影響をあたえるのは、他でもない僕ら「お客さんたち」だ。
たとえばどんなに素晴らしい環境が整ったカフェであっても、周りが大声で話し合うお客さんばかりでは、ゆったりとした雰囲気は望むべくもない。
たとえばディズニーランドでも、すべての人が「夢のイメージ」を共有しているからこそ、夢が崩されずに保たれている。
なので、お客さんの中のひとりが「体験に気を遣わない人」であれば、それは微弱ながら、他全ての人の体験にも影響を与えるはずなのである。
体験という奥深い世界。
そんなことを考えた、今日だった。
スターバックスのホットドリップコーヒー・グランデ・ホイップ乗せ
僕らは日々、無数の選択をおこなっている
僕はスターバックスのホットドリップコーヒー・グランデ・ホイップ乗せを注文する。
これだけでもう、5つの選択をしたということになる。
- スターバックス (店舗の選択)
- ホット (タイプの選択)
- ドリップコーヒー (種類の選択)
- グランデ (サイズの選択)
- ホイップ乗せ (トッピングの選択)
だが「スターバックスでホットドリップコーヒーのグランデ ホイップ乗せを頼む」という選択をひとつのパッケージにしてしまえば、選択の個数はたったひとつだけで済む。
人間は、こうやって「お気に入り」というものが出来ていくものみたいだ。
パッケージの理由
ところで僕がこの組み合わせを選ぶのは、次の理由による。
- ワンモアコーヒーが可能なドリップコーヒーを選ぶ
- トールではすぐに飲みきってしまうので、グランデを選ぶ
- 午後はカフェインを摂らないようにしているので、デカフェにする
- 午前であれば普通のドリップコーヒーを注文する
- スターバックスのデカフェはやや苦いので、ホイップを追加する
- 味をまろやかにするならミルクでもよいのだが、今時分が糖質制限中なので、より糖質の少ないホイップを選んでいる
- このホイップを最初、一口だけ口に運び、あとは温かいコーヒーに溶かして飲むという手順を取る
スタバファンにとっては当たり前なのだろうけれど、自分好みのカスタマイズを決めていくというのは、なんとも楽しい経験である。
レジでの注文
ちなみに、そろそろこのパッケージが自分のお気に入りに決まってきたのだが、まだ長い名前をレジで言うのは慣れない。
それに、いかにも慣れた早口で注文するのも、なんだか優雅じゃないし。
スタバ初心者から中級者にさしかかったユーザーのように、いつまでもたどたどしく伝えてみたい。
スタバの接客力は世界一
ところで、デカフェのコーヒーは出来上がるまでに5分から10分ほどかかるので、店員さんが席まで持ってきてくれることが多い。
こうやってブログを書いている間にコーヒーが運ばれてきたので、僕はさっとブラウザのタブを閉じた。
そして店員さんは、聞き取りやすい、ちょうど良いボリュームの声で、喋る視線を合わせて目を見ながら話しかけてくれる。
(そしてブログの続きを書く)
スタバの店員さんの接客は、つくづく日本一だなと感じる。
という、とりとめのない話。