何の発展性もない休日を過ごしたい
- 先週よりも、今週の方が発展性がない。
- 今週よりも、来週の方が発展性がない。
それが僕にとっての、理想の休日だ。 「発展性がないこと」においてのみ、発展を求める。
たとえばマクドナルドで、人の話し声の中、 何に役にも立たない本を読みながら、何の役にも立たない時間を過ごしたい。
先週、マクドナルドで僕が読んでいたのは、たまたまビジネス書だった。
だけどそれは、自分のためになると思って読んでいたわけではない。 なんの進展もない休日を過ごそうと、ただその時間を美しく過ごすために、脳を遊ばせていたのだ。
僕にとって、その時重要なのは、特定の本を読むことではなかった。 本を開きながら、人の話し声の中で、時間を過ごすという体験だった。
同じ本を読むにしても「これを読んだらもっと賢くなって、人生をよく出来る」という動機で読むのと、 「本を開きながら過ごす時間を味わう」という動機で読むのとでは、まったく感触が違ってくる。
目的のある休日は忙しい。
だから僕は本を読むことで、より賢くなろうとしたりしない。 より幸福になれる場所を探したりしない。 今後の人生設計も一切しない。
ただその日はその日として、その日のうちに過ぎ去っていくのみである。
午後18時にもなれば、だんだんと日が暮れてくる。 だけど「明日は仕事で嫌だ」とも思わないし、1日が終わったことに満足を感じる。
クリエイティブって何だろう
天才のクリエイティビティ
「クリエイティブ」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、どんなものだろう。 たとえば次のようなものじゃないだろうか。
- 一流アーティストの先鋭的な作品
- レオナルド・ダ・ヴィンチのデッサン
- 何千万人にメッセージを与える広告デザイン
- 人工知能の開発現場
- 心躍る Apple や Google の新規プロダクト
クリエイティブという言葉には「ごく一部の天才の所有物」という響きがある。
ピュアな存在のクリエイティビティ
もしくは
- 子どもが描いた落書き
- 象が描いた絵(そういうのがあるんだよ)
といったものかもしれない。
子どもや動物など、ピュアな存在にはクリエイティビティが宿っている、とそう考えるかもしれない。 だけど大人が同じことをやったら、それはクリエイティブじゃないんだろうか?
大人のクリエイティビティ
例えば大人が、
- 紙に簡単な絵を描く
- 携帯で写真を撮るととき、一番良いレイアウトを考える
- メールの文章を考える時、ほんのわずかなユーモアを潜ませてみる
- 料理をつくる時、クックパッドに書かれてない手順を取る
こういったものは、クリエイティブじゃないんだろうか? 僕はクリエイティブだと思う。
クリエイティブはごく限られた一部の人間のものではなく、どこにでも存在するものだ。 ただ僕らがそれに気づいていないだけで。
別に人に褒められるような、偉大な作品を描くのだけが、クリエイティビティではない。
狭い意味でのクリエイティブ、広い意味でのクリエイティブ
狭い意味でのクリエイティビティとは、今まで誰も思いつかなかったような形で、世の中にコンテンツを提供することだ。
広い意味でのクリエイティビティとは、今まで「自分」が思いつかなかったような発想を、日常でのアクションに反映させてみることだ。
それが大きいにしろ小さいにしろ、何らかのアイディアが脳に生まれた時に、それを封じ込めずに、何らかの形で描いたり、伝えたりしてみることだ。
世界には数十億人もの人間がいるのだから、それが「人類にとって、全く新しい発想」である可能性は、極限に小さいだろう。 だけどそんなことは関係ない。広い意味でのクリエイティビティとは、世界に評価されるためではなく、日常をほんの少しだけ楽しいものにするためにある。
だから、そもそも作品という形さえ取らないようなクリエイティビティで、世界は溢れているんじゃないだろうか。
僕はそう考える。
ところで
今朝は窓から、焼け付くような日差しが挿し込んでいた。 これを写真に収めたいと思った。
だけど、こういう朝陽の写真はもう何度も撮った。 僕はこの焼け付く感じを記録したいと思って、手をかざしてみることにした。
太陽に手をかざすなんて、おそらく世界中で、ずっと昔から使い古されてきたレイアウトのはずだ。
だけど僕自身は、いままで思いつかなかった。 そして「僕自身がこのレイアウトで写真を撮った」というのは、今までで初めてのアクションだったのだ。 (いや、もしかしたら昔にも同じような写真を撮ったかもしれないが、それは問題ではない)
ここでいうクリエイティビティとは、コンテンツの新規性ではない。 ひとりの人間のコンテキストにおける、アクションの新規性だ。
否定
だがここで 「これがクリエイティビティだって? 笑わせるな」という心の声が聞こえてくる。
そう、僕たちのピュアなクリエイティビティは「クリエイティビティの評価に値するか、否か」という心の声によって、死に絶えてしまいがちだ。
だがしかし「クリエイティビティ」と「評価」は本質的に異なる。 僕は、世間に向けて「クリエイティブでしょう?」と問いかけることなしに、ひそかに心の中で、クリエイティブってやつを楽しもうと思っている。
僕は希薄な人間関係が好きだ | 100倍に薄めたコーヒーの話
たとえばコーヒーを100倍に薄めて飲むことを想像してみてほしい。
そのコーヒーは恐らく、まるで水と見分けがつかない。 だけど1%だけは、コーヒーの成分が含まれている。
これは果たしてコーヒーと言えるのだろうか?
- 1%の濃度のコーヒーはコーヒーなのか。
- 50%の濃度からがコーヒーなのか。
- まったく薄めずに飲むのがコーヒーなのか。
- もしくはエスプレッソだけが本物のコーヒーなのか。
どこからどこまでがコーヒーなのだろう。
人間関係
話は変わる。 僕らはどこからどこの範囲までを「人間関係」と認識しているだろう。
- 家族
- 恋人
- 親友
- 友達
- 知人
- 職場の人
- 近所の人
- 公園でたまに挨拶をする人 (ジョギングとか犬の散歩とかで)
- 店の店員さん
- 宅配便の人
- 通勤電車で毎日同じになる人
- 本屋で肩がぶつかり「すいません」と1秒だけ声を交わした人
- 街行く全くの他人
どこまでを「人間関係」と認識しているだろうか?
僕は最近「街をゆく、まったくの他人」でも、人間関係の一部だというような感覚を持っている。 コーヒーで言うなら、1/100の濃度の関係だ。
街に人が歩いている。 それが自分の視界に入る。 表情や雰囲気だって感じられる。 靴音も耳に入ってくる。
カフェやファストフードに入れば、雑然とした雰囲気の中に身を置くことになる。 話の内容を意識することはないが、たまに、あるものは単語として耳に飛び込んでくる。
とりたてて意識こそしないものの、僕たちは「話しかけない他の人」同士であっても、視覚情報で、聴覚情報で、お互いに影響を与えあっている。 (人がひとりもいないカフェと、人がいるカフェでは、随分と居心地は変わってくるだろう)
人とのつながり
「人とのつながり」というものを語る時、僕らは明確で、濃厚な関係を想像しがちだ。
顔と顔を突き合わせて、酒を飲み、なんでも本音で語ることのできる、いざとなれば助け合う、生涯を共にする友人、というような。
あるいは、たとえ街ゆく人でも気さくに話しかけ、心を開き合い、ためらいなく言葉を交わす、というような。 (そういう人はごくたまに見かけるけれど)
- 「希薄な人間関係」は悪くて「濃厚な人間関係」は良い。
- 現代人に失われた、皆が求めてやまない関係性とは、濃厚な人間関係だ。
このような文脈で語られることが多いように思う。
けれどもし、人と人同士のつながりが重要なのだとしたら、何故、街行く他人には「つながり」を感じないのだろう。 なぜそれは最初から「つながりの対象外」なのだろうか。
個人的な感じ方
重要なのは、自分が「人とのつながり」を、どういった形で感じるかということだ。
- 家族との団らんで
- 親友との飲みの席で
- インターネット越しに
- 本を読みながら歴史に思いを馳せて
「パーティーでの孤独」という言葉がある。 誰と過ごしていても、飲みの席でも、カフェでも、家族とでも、友人でも、心がつながりを感じればそれはつながりであるし、そうでなければそうでない。
「人とのつながり」というものは、人間の本能的な感覚であって、理屈で証明されるものではない Aという場所で、Bという人と、Xという行動を取ったからといって、必ず感じられるというものではないのだ。
人はひとりでは生きられない、社会的な生き物であり、「人つながっている感覚」はとても重要だ。
だけどそれを感じるために、別に世間一般の固定観念に従わなくても良いのだ。 僕たちは「人とのつながり」をテンプレートに押し込めてしまいがちだが、実はどこにでも「つながり」を感じられる場所はあって、僕らがそれを取りこぼしているのだと、僕は考える。
だから、僕は希薄な人間関係が好きだ。 なぜなら街ゆく人にも、カフェで隣り合った言葉をかわさない人にも、100分の1のつながりを感じているから。
僕は勝手に彼らのことを、100分の1の友人だと考えている。
「9個の点を4つの直線で結ぶクイズ」に答えてみた
とある機会があり。
問題
こいつを4つの直線、なおかつ一筆書きで結べれば正解。
ちなみにこのクイズは、いろいろな本に出てくるかなり有名なもの。 主なメッセージは「固定観念に縛られるな」。
だが自分は答えを知っているので、そのまま回答するのもつまらない。それでは。
こうして
こうだ
紙を破いてはいけないというルールはない。
鉛筆を刺して出来上がり
あまりうまく撮れなかった。
ところで
このクイズって名前あるんだろうか。
J'adore Chayamachi (ジャドール茶屋町)でランチしてきた ( 鶏胸肉のタリア タイ仕立て )
14時。昼過ぎ。
雨も止んで、いい天気。
テラス席が暖かそうだ。 ジャドールでランチすることにした。
このお店は、サラダのビュッフェがあるところがいい。 1000円ぐらいでパスタランチ+サラダ+ドリンク+パンが食べられる。
ただ自分は糖質制限中なので、1500円の肉料理を頼むことにした。
ランチにしてはちょっと高いが、パスタはどうせ食べないし。 腹も減っているし、テラス席のプラス代金だと思って、ドアを開いた。
ここでランチするのは、通算5回目ぐらいだが、テラス席を使ったことはなかった。
ケーキを見ながら待つ
わりと穴場なので、この時間でもだいたい10分ぐらいは待つことが多い。
テラス席は空いてますか?
と聞いてみた。
でも「雨が降ってくると、席の移動はできないので、店内にお通ししている」ということ。
最初は店内の席で我慢しようかとも思ったけれど。やっぱり、何か違う。 僕が今日1500円を使うのは「テラス席で優雅に過ごす時間」に対してのはずだ。
もうメニューは注文した。時間はない。 そこで「やっぱりテラスが良いので、今日は帰らせていただきたいです」と店員さんにお伝えした。
そうしたら「雨が降ってきても席の移動はできない」という前提で、テラスに通してくれた。 (なんでそういうシステムなんだろう? さすがに雨に濡れながらランチしていたら、店内に入れてくれそうな気もするけど)
ちなみに席は二時間制ということ。
席
他にテラス席には、お客さんはいない。貸し切り状態。
日本にはあまりオープンカフェという文化がないのか? こんないい陽気なのに、他の人は、みんな店内でランチしている。なんてもったいない。
席に革ジャンをかけて、ビュッフェを取りにいくことにする。
わりと太陽は眩しくて、日焼けで肌が老化しないかな、なんてことを考える考える。
パンビュッフェ
糖質制限中なのでスキップ。
サラダビュッフェ
普段、自炊では食べないブロッコリーと海藻類をいただく。
ブロッコリー+マヨネーズ+ベーコン
この組み合わせは、なかなか美味い。
マーガリン+人参
初挑戦してみたが、あまりうまくいかなかった。
ちなみにサラダにバターを組み合わせるのは「最強の食事術」で紹介されていた組み合わせ。 (これはマーガリンだけど)
メイン料理
鶏肉のテリーヌ? メニューの名前を忘れてしまった。(店を出る時、店員さんに聞いてみよう)
なんとも、美味い。 さすが、夜は結婚式の二次会にも使われるお店のランチだけある。
ほんの少量の、やわらかい鶏肉。 まずは半熟卵をつけずに、本体を楽しむ。
奥ゆかしい味付け。 甘いソースがわずかにかかっている。
周りに散りばめられた香辛料の香りも、鮮明に分かる。
どんな名前のソースで、どんな名前の香辛料なのか、名前が出てこないのが少し悔しい。 (「うーん、バルサミコ酢さんが最高ですね」とか書きたい)
半熟卵と一緒に
これもなかなかいい感じ。
ただ香辛料の微妙な味わいが消えてしまうので、別々に食べたほうが好みだった。
店員さん
- ナイフ・フォークを探していたら、一瞬で「何かお探しですか?」と声をかけてくれた。
- シェフが席まで料理を持ってくる時「テラス席、爽やかですね」と、テラス席以上に爽やかな笑顔で声をかけてくれた。
- ビュッフェを取りに行った帰り、ドア付近で食材業者の人(?)が出し入れをしていて、テラス席に出られなかったので、しばらく様子をうかがっていると、店員さんがすぐに気が付いて道を開けてくれた。
さすが、結婚式の二次会にも使われるような、ちゃんとしたお店の方は一味違う。(二回目)
1500円のランチで、ものすごく気を遣っていただいた感じ。ありがとうございます。
食後の時間
今日は休日初の試みとして、Mac Bookを持ち歩いているのだ。
食後は優雅に、MacBookを開く。 いままさに、食事の感想をブログに書いているところだ。
ランチがまだ終わっていないのに、現場で食事の感想を書いている。なんとなく、タイムパラドックス感。
iPhoneからデザリングするのがうまくいかなくて、20分ぐらい手間取ってしまった。 (iPhone側でパーソナルホットスポットがオフになっている問題だった)
iPhoneの電池も、MacBookの電池もぐんぐんと減っていった。 (携帯やPCって、ネットワークに接続できずにトライし続けているときの方が、電池を食うらしいので)
ブログを書き終わる頃には、90分近くが経ち、外も肌寒くなってきた。 席は二時間制なので、もうすぐ終わりかけの時間。
お会計
ごちそうさまでした。
(と、店を出る前にこの記事を投稿する)
メニューの名前
鶏胸肉のタリア タイ仕立て
だった。
マクドナルドでグランクラブハウスを食べてきた
マクドナルドを通りがかるたび、心の3%ぐらいでは「行きたいな」と思いつつ早1年。 ついに行く機会がやって来た。
気になっていた「グランクラブハウス」単品と水を注文する。
外観
糖質制限中なので中だけ食べる
なんともシュールな光景になった。
パン
友だちにあげた。
感想
マクドナルドのハンバーガーって、どんな新作が出てもだいたい、同じ味がする気がする。(特にベーシックな奴は)
詳しい感想を言えるほど、僕の舌はマクドナルドのバーガーに対して繊細な最適化はされていないのであった。
でも悪くなかった。
ハンバーガーを中身だけ食べるメソッドも悪くない。
パンをなくしてもハンバーガーはハンバーガーであることをやめず、ハンバーガーとしての自己主張を大いに残していた。 レタスがパンの替わりを務めていた。
糖質制限中。 休日ごとに、美味しい肉を求めてランチに1000円-2000円を使うより、マクドナルドのパン抜きメソッドを実行した方がずっと良い気がした。
チェーン店あなどれない。
ハンバーガーの中身はハンバーグだという誤解
パンを抜いたらただのハンバーグだって?
とんでもない。味わいがまったく違う。 ハンバーガー用のビーフはハンバーガー用に作られているのであって、まったくの別物だ。
- 薄い
- 味付けが違う
- パンが既に水分を吸い取っている
ざっくりとしか分からないが、とにかく違う食べ物だということだけは分かる。