すべての映画を1時間1000円に縮めてほしい
映画って長くない?
どんなに短い映画でも、だいたい90分はある。 本編開始前の広告も入れたら100分は超える。 みんな、よくそんなに長い時間、周りもギューギュー詰めで、暗い場所の中、姿勢も変えずに過ごせるなと思う。 ポップコーンを食べるにも、ドリンクを飲むのにも音に気を遣う。 映画を2時間も3時間も観られる人は、すごい。すごい集中力だ。
最近の映画はエピローグが多い。 たぶん視聴者の心を満たすために。 僕たち「その後はどうなったの!?」という飢餓感を少しでも減らすために。
だけど長すぎる。 エピローグのエピローグのエピローグのエピローグみたいな奴もある。 物語がようやく終わったかと思いきや「まだ続くのかよ!」と思って冷めてしまう。 ストーリーの佳境はとっくに過ぎ去ったのに。消化試合か。
僕はそんなに長く観ていたくない。 だいたい1時間が過ぎた頃には満足してしまう。
休日に、ほんのちょっと時間「映画を観る」という体験をして、素敵な時間を過ごしたいだけなんだ。
それに日本の映画は他の国より高いと言われる。 カフェで過ごせば500円。ランチをしても1000円。それでも「まずい店」なんてまずない。 映画は1800円を払って、2-3時間を拘束されて(あえて拘束されに行って)、なおかつ当たりハズレがある。 この金額のせいで「つまらないから、途中で席を立つ」ということがためらわれる。 (それにしても、自分も含め、映画の途中で帰る人がゼロなのには驚かされる。中にはつまらない映画もあるだろうに)
だから2時間1800円は高くて長い。 1時間1000円にしてくれたら、もっと気軽に通えるはずだ。 なんなら30分500円でも良い。
映画館で隣のおじちゃんの鼻息がうるさくて格闘を続けた日曜日
今日もミニシアターに行った。人生二度目だ。 作品はアカデミー賞を受賞したらしい「たかが世界の終わり」。
場内に入ると、満席だった。すごい。 昨日のように、のびのびくつろぐとはいかなさそうだ。
本編が始まる。
しかし、なんだか左の方から、寝息のような音が聞こえる。 まさか、左の人、寝ているんじゃないだろうか? いや、まさかな。こんな満員の人気映画で寝るなんてあり得ない。 しかし、昨日だって、左側に寝ている人がいた。映画館の左側には必ず寝てる男がいるのか?
と思って5分ほど。いざ左を見てみると、初老のおじいちゃんが、やっぱり寝ていた。 僕の左の耳に、規則正しく聞こえてくる寝息。とても気になる。 ミニシアターだから映画の音量は小さい。しかも静かなフランス映画だ。 映画の音量が10ポイントだとしたら、おじちゃんの鼻息が11ポイントぐらい。
そして「左側からだけ聞こえてくる」というアドバンテージ。 これが5分に1度の咳払いとかならまだしも、規則正しく、延々と繰り返されるのだから。
「そのうちきっと起きてくれるはず。。。」と思いながら本編に集中するものの、どうやら起きる気配はなさそうだ。 僕は5分ほど考えた後に、思い切って、おじちゃんの肩を軽く叩くことにした。
おじちゃんは「はい。。どうしました?」と聞く。 僕はサイレント、トーキー、つまり身振りで「本編が始まってますけど、観なくて良いんですか?」と、スクリーンの方を、手のひらで指す。 おじちゃんにも意図が伝わり「ああ。。ありがとうございます」とはにかむ、おじちゃん。
良かった。勇気は出してみるものだ。 これで残りの1時間以上を快適に過ごせるのだから。
しかし、これは解決ではなかった。 おじちゃんの鼻息は「寝ているせい」ではなかった。まさかの、デフォルトだった。 目を覚ましたはずのおじちゃんも。全く同じ音量で、左側から鼻息を立て続ける。 それはもう、規則正しく。そして、3分に1回ぐらいはメガネを外して、大きくて長い溜息をつく。
この状態が、30分ほど続いた。まったく映画に集中できない。
僕も色々と試行錯誤はした。 左耳を自分でふさいでみる。最初は名案だと思ったが、ものすごく肩が凝ってきてやめた。 バッグからイヤホンを取り出して、左耳につけてみる。 だが、このイヤホンに防音効果はなかった。
なぜこのおじちゃんは、こんな満員の人気映画をミニシアターに観に来て、なおかつ真ん中の真ん中の席で、鼻息を立て続けるのだろう。
このおじちゃんが鼻息を立て続けることによって、少なくとも周り8マスの観客の映画鑑賞に悪影響が出ている。(はずだ) そのぐらいの音量ではあった。
30分間の「本編に集中しようとする努力」と「おじちゃんの鼻息に気を取られる意識」との戦い。 もう途中で、自分が席を立って帰ろうかとも思ったが、僕自身も場内の「真ん中の真ん中の席」に座っているため、席を立つのも周りに迷惑がかかる。 (そう、映画というものは、物語の中に入り込むのが醍醐味なのだから。他の人のそれを邪魔してはいけない)
もう僕は、30分ほど格闘を続けている。 だがまだ上演時間は何十分か残っている。
そして物語も佳境に差し掛かった頃、どうにも「このままの状態じゃいけない」と思い、ついに行動を起こすことにした。 一刻も早く、この状況から逃れたかったのだ。 ここで僕が注意しなかったら、おじちゃんは今後一生、映画館で周り8マスの人を不幸にし続けるかもしれない。 誰かが言ってあげなくてはいけない。
僕は勇気を出して、こんな文面を携帯に打ち込んで、おじさんに見せることにした。
おじさんはメガネを取って、目を凝らして画面をよく見たあと、「分かりました」と人が良さそうに答えた。
僕は、ついにやった! 良かった。僕は8マス分の観客、そしておじさん自身をも世界から救ったんだ。 そして「自分が心地よくない環境」を「心地よく変える」ということを実現できた。 「人に対して丁寧に、要求を伝える」ということをやってのけたんだ
だがしかい。これは、まるで解決にはならなかった。 自分の鼻息に注意を向けてもなお、以前とまったく同じ音量で繰り返される鼻息。 以前と同じペースで繰り返される、3分に1回の大きなため息。
薄々気付いていたが、これは完全に、無意識なんだろうなと思った。 「意識しても治らない癖」という奴だ。
そして映画のエンドロールが終わった頃、おじちゃんは気持ちよさそうに背伸びをして、 「失礼致しました」とこちらに人の良さそうな挨拶をして、帰っていった。
ほとんど、おじちゃんの鼻息の記憶しかない。 なんだか主人公の兄が、夕焼けに照らされていた風景がすごく綺麗だなと思った記憶はある。 おじちゃんの鼻息を聴くために、1800円と90分間を費やした日曜日の午後だった。
しかし映画館での映賞というものは、ものすごく高いハードルが要求される、高度な統率が要求されるのだなと思った。 たとえば観客が100人いれば100人が全員「物語にのめり込むため」に、大きな音を立てず、マナーを守らなければいけない。 この中のたとえ1人でも統率の取れないメンバーがいると、残りの99人が「のめり込むチャンス」を失ってしまうのだ。(大きな咳払いをする人とか) いやせめて少なくとも、自分の周りの8マス分、せめて前後左右の4マス、左右の2マス分だけでも、鑑賞を妨げない人であってほしい。 しかしこれは、ほぼ運だ。 映画鑑賞の質はランダム性にも左右されるのだなと思った。
しかし「真ん中の真ん中の席」というのは鬼門なのだろうか。 僕は真ん中が好きなのだけれど、どうにも「咳払いをするおばあちゃん」とか、物音を立てる人が多いような気がする。 あんまり映画館に頻繁に行くわけじゃないし、ただの気のせいかもしれない。
映画館では。。。。お静かに。。。。。。。。。。!!
「レオナルド・ダ・ヴィンチ 美と知の迷宮」 感想
休日の夕方、初のミニシアターに鑑賞に行った。ひとり映画だ。
目的は「ミニシアターで休日を過ごすという体験」をしたかっただけなので、席についた瞬間に、目的は果たされている。 なのでもう帰っても良かったのだけど、せっかく1800円払ったし、せっかくなので本編も見ていくことにした。
1時間ちょっとの間、ゆっくり洋画の雰囲気にひたろうと思ったが、まさかの吹替版。 (ミニシアターとか洒落てるし、ぜったい字幕版だと思うじゃん)
お客さんは全席の1割ぐらい。 途中、左の席の人が寝息を立てているような気がした。 (「映画館には寝るために来る」っていう趣味の人かもしれない。きっとそうだ)
結果としては、すごく面白かった。 ドラマではなくドキュメンタリー。美術ドキュメンタリーだ。 初心者にも分りやすい、親切な映画だった。
僕自身は年に1回ほどは美術館に足を運んだりするが、特別詳しいわけではない。
ダ・ヴィンチは「人体から建設を見る」「建設から人体を見る」という部分が画期的だったらしい。 確かにそういう目でデッサンを見ると、明らかに「人体が建設物として描かれている」ように見えた。
しかし、人間の知性の本質を感じさせるような、なんていう精巧なデッサンなんだろう。
ダヴィンチというと一般には、ものすごい天才というイメージだが、あらゆることに手を出しすぎて、悪くいうと「全てが中途半端」だと言える部分もあったらしい。
ドキュメントでは「ダ・ヴィンチは時代(?)を進歩させようとしていた」と語られていたけど、本当かなあ。 「世の中を良くしよう」という気持ちなんか持っていたんだろうか。 ただ面白いこと、自分の興味のあることを突き詰めただけじゃないだろうかという感想だ。 (もしかしたら、進歩的な思想の持ち主だったんだろうか)
弟子たち
興味深かったのは「ダ・ヴィンチの弟子たち」の部分で、画風はダヴィンチに似ているのだが、なんというか、どこか違うというか、迫力は感じられなかった。 これは「ダ・ヴィンチの弟子の作品だ」と紹介されたことでの先入観によるものなのか、それとも質が明らかに違うのか、そのどちらかは分からないが「何か違う」という感覚だった。「迫ってくるもの」がないのだ。
だがその中でも目立ったのが、弟子の一人「サライ」の作品だ。 なんというか「心から人を馬鹿にしている人が描いた作品」という印象を受けた。 少なくとも、何かしらの狂気を感じた。
世間から今でも汚名を着せられているとおり「絶対こいつ、悪いやつだろう」っていう。 この印象は「ドキュメンタリーで紹介された先入観」から来たものではないはずだ。
最後の晩餐
最後にキリストの「最後の晩餐」の話が出てきた。ユダの裏切り。 この絵の中で「誰がユダか」ということも初めて知った。
だが、この描き方にはとても納得がいった。 キリストが「この中に、裏切り者がいる」(という意味のこと)を言う。その瞬間をとらえた作品。 裏切り者はひそかに大勢の中に紛れている。ものすごく目立つわけではない。ひっそりと潜んでいる。
もうひとり印象的だったのは「フィリポ」だ。 フィリポは裏切り者ではないのだが「もしかして、自分のことだろうか?」と自問しているように見える。 それがドキュメンタリーの音声で解説される前に、フィリポの動作自体から「まさに、自問しているようだ」ということが感じられた。 これはすごい絵だと思った。
「最後の晩餐」には、神話に対して想像力を働かさせる力があると思った。
ところで書籍「サピエンス全史」によると「物語が人類を動かしている」と説かれる。
思えばキリスト教というのは、信じられないほど説得力の高い、壮大な物語を描いているのだなと思った。 日本人の僕でさえ、「キリストの時代には、何か、ものすごいことが起こっていた」と想像できるのだから。
神話の力はすごい。
ガムに含まれる 炭水化物の謎
歯磨きガム(驚くほど甘くないガム)の成分表には、こう書かれている。
- 10枚あたり
- 36kcal
- 炭水化物 18g
- 糖類 0g
この炭水化物18gって、どういうことなんだろう。 もしこれが全て糖質なら、18gx4kcal=72kcalになっているはずだ。
ガムだから「成分としては含まれているけれど、噛んだ後に残るゴム本体に含まれている分」だろうかと考えたり。 (しかし人体に吸収されない分を、栄養成分として表記したりするだろうか?) 食物繊維が含まれているとも思えないし。 実感としても、飴とかに比べると本当に甘くないので、18g分も炭水化物が含まれているようには、とても思えない。
「ガム 炭水化物」でネットで検索しても、納得のゆく回答がヒットしない。 栄養学に詳しくない自分としては、謎だ。
PS3で初代PSのソフトを遊べることを誰も知らない
僕も初めて知った時は驚いた。
ネットの記事で見てもまだ信じられなくて、 半信半疑でPS1のディスクをPS3に入れると、本当に再生できて、ようやく納得がいった。
このことを知り合いに話しても「いやいや、嘘でしょ」と取り合ってさえもらえなかった。
この事実が知られていなかった理由としては、単に「盲点だから」じゃないだろうか。
- 「2世代前のハードと互換性がある」
- なおかつ「PS2ソフトに互換性がないのに、PS1との互換性はある」
この発想は、普通に遊んでいても思い浮かばないはず。 「ディスクを入れてみよう」とさえ思わないはずだ。
これほどに知名度の低い機能なら、もしかして互換性をなくしたら本体価格は500円ぐらい安くなっていたんじゃないだろうか。分からないけど。
ちなみに「大抵のBlue-ray/DVDプレイヤーでもCDが再生できる」ということも、あまり知られていない。 (というより、人の意識にのぼらない)
頭の空腹 vs 体の空腹
頭で感じる空腹と、体で感じる空腹は違う。
たとえば、コンビニでチロルチョコを見かけた時。 Youtubeでピザハットの広告を見た時。 街でケンタッキーの看板を目にした時。
こんな時に感じるのはたぶん「頭の中の空腹」だ。 「思考」と関連づいている空腹感。 僕らは本物の空腹と区別していないが、実はこれは空腹ではなくて「食べたい欲望」だ。 「お腹が空いたらスニッカーズ」の「スニッカーズを食べたい気持ち」も、たぶん頭の中の空腹であり「食べたい欲望」だ。
日曜日。今日は 4時に目が覚めた。
- 一昨日の摂取カロリー 800kcal
- 昨日の摂取カロリー 500 kcal
という軽い断食状態を経て、自分は久しぶりに「本当の空腹」を感じたような気がする。 「何か食べたい」と頭が判断するのではなく、 「何か食べないとやばい」と、体が反応している感じだ。 胃腸が動く音がハッキリと聞こえる。
冷蔵庫を見て、バターを100kcal分だけ食べてみた。(糖質を取らない) こんな状態になると、1kcal ごとのカロリー摂取がダイレクトに、体に影響を与えるのが分かる気がする。
いつも、無頓着なカロリー摂取に慣らされている体にとっては、貴重な経験だ。 食事がいかに、人の状態に影響を与えているというのが、よく分かるから。
「食事が人体に与える影響」は、僕らが思うよりも100倍ぐらい大きいのかもしれない。 単に適切な栄養を取れば良いということだけではなくて、栄養を取るタイミングや、量や、人体に起きる化学変化(的なこと)が大きく絡んできている気がする。
糖質制限 / 断食の耐久記録を更新
といってもちゃんと計測したわけじゃないけれど。
糖質制限や断食を長時間していると、今までは長くても1日ぐらいで 「もう無理」ってタイミングがやって来てたのだけれど、それより耐久時間が長くなってきた気がする。
昨日の摂取カロリーは 850kcal で 炭水化物 50g。 今日はもう夜遅くなのに 300kcal と 炭水化物 10g。
1日はほぼ断食状態だ。
体に起こる現象は以下の通り。
- 歩くのがめちゃくちゃ遅くなる。早く歩けなくなる。すべての動作が遅くなる。
- 頭のあたりが、ジンジンとしびれてくる。( むしろ気持ち良かったりする )
文章にするとかなりヤバイ気がするが、人間は食べなくても30日は生きられるというし、まあきっと大丈夫だろう。。 「どこまでいけるか」っていうチャレンジみたいになっている。
以前は、早く動けなくなるのを「筋力低下のせいだろうか」「病気だろうか」と心配していたのだが、 今では炭水化物やカロリーの摂取量とほぼ連動していることが分かって、むしろこの状態を楽しんでいる。
前よりも記録を伸ばせそうだ。
しかし何のために伸ばすのか。。。それはケトン体ダイエットのため。 炭水化物よりも脂肪を燃やす体に生まれ変わるためだ。 (本当にそういうことが起こるのかどうかは知らないが、30代男性のウェストは絞りたい一心)
今日はこのまま摂取カロリー300kcalぐらいのままで終わるかどうかというところ。
ところでストイックな糖質制限をやったその後に、ちょっとだけ炭水化物を摂ると、すごく体の調子が良いような気がする。 「最低限の炭水化物量」は人のコンディションを最も上げるのではないだろうか。